グリューゲル時代のギュス様とフリンのお話。
——おい、フリン。
声が空から降ってきた。ボクの名前を呼ぶ人は少ないから、すぐにそれが誰の声かはわかった。
ボクは川沿いの道を歩いていた。そこをずっと真っ直ぐ行くと、大きな御屋敷がある。中心地からは離れるけれど、グリューゲルの中でも目立つ、立派な家だ。もちろんそこはボクの家ではない。ボクが好きな人が住んでいるところだ。
朝、その屋敷の前で待つのがボクの日課になっている。最初は胡乱な目をして追い立ててきた門番も、今となってはこちらを見向きもしない。咎めないかわりに声をかけることもない。居てもいなくても同じ。いつものことだ。
じっと待っているとその屋敷からギュス様が飛び出してくる。ボクが待っているのが当たり前みたいに、行くぞと言って名前を呼んでくれる。たまにソフィー様が門の中から見送ってくれる時もある。
今日もそこで待つつもりだった。なのに、いつもよりちょっと遅れてしまったからか、屋敷に向かう道の途中で声をかけられたんだ。
声がふってきた方を見上げたら、ギュス様が大きな樹の上に座っていた。ギュス様が木登りをするとこは見たことがなかったからびっくりした。とても大きな樹だった。いつの間に登れるようになったんだろう。でもギュス様はボクより走るのも速いし、力も強いからそんなことも簡単にできるのかな?
「ギュス様、すごいね」
ボクが思ったままを口にしたら、ギュス様はとても得意そうな顔をした。
「お前も来いよ」
「ボクには無理だよ」
ギュス様は、ボクの頭よりずっと高い枝に座っている。落ちたらと思うと怖かった。
でもそうしたらギュス様はもっと恐い顔をして睨んできた。
「なんでだよ」
「ボクにはできないよ、ギュス様。それに落ちたらきっと痛いよ」
「それでやめるのか? だからお前はダメなんだ。やってみてもないくせに」
そう言われたらその通りだ。ボクは弱い。周りからもずっとそう言われてきたし、ボク自身もそうだなと思ってる。無理だと首を振れば、みんな鼻で笑って去っていく。頑張れなんて言われたこともない。
ギュス様もボクを見捨てるのかな。それは嫌だな。
ここでこうしていてもギュス様は降りてくる様子も無ければ、手伝ってくれるような雰囲気もない。何もしなければボクはこうやって一日中ずっとギュス様を見上げつづけるだけなのかもしれない。
目の前の樹を見つめる。低い場所を見ても簡単に足をかけられそうなところがない。幹にしがみついてよじ登るようにするしかない。
考えるだけで足がすくむ。でも——
ボクは少しだけ後ろに下がった。樹に向かってえいやぁっと走って飛びつく。鼻が幹に当たって激痛が走り、腕を回しきれずに後ろへとひっくり返った。おしりがじんじんとする。
ギュス様は笑った。でもさっきみたいに睨んではいない。じっとボクの方を見ている。
ボクはまた樹へ向かって跳んだ。少し出っ張った節に伸ばした手が滑る。手のひらに擦り傷ができ、擦れた膝から血が滲む。水の術が使えたらいいのにって何度も思った。痛い。とても痛い。やめたい。やめたいけど、ギュス様がボクを見てる。
何回目の挑戦だったかもうわからなかった。やっとの思いでボクは一番低い枝に足をかけ、なんとかそこによじ登った。手も足も顔も傷だらけだった。
「だらしないなぁ」
ギュス様が言った。気づいたらギュス様はボクの少し上の枝に移動していた。手に何かを持っている。それをボクの方に投げるようにして手渡した。慌てて両手のひらでその丸いものを受け取る。バランスを崩してしまい、枝に寝そべるようにしてなんとか落ちないように踏ん張った。
それはこの樹になっていた赤い果実だった。
「食えよ」
ギュス様がそう言って、自分の手の中にある果実に齧り付いた。口の端からあふれた果汁を反対の手の甲でぬぐっている。
下にいた時には気づかなかったけど、ギュス様の手は傷だらけだった。よく見たら膝も擦りむいていたし固まった血が張り付いて赤黒くなっていた。
もしかしてギュス様も登ろうとして何回も落ちたのかな。それでも歯を食いしばって、諦めずに飛びついてたのかな。
「……えへへ」
「なんだよ、気持ち悪いな」
思わず顔がにやついちゃうと、ギュス様が眉間に皺を寄せた。
手も足も体も、そこらじゅうが痛かった。
でもなんだか嬉しかったし、口にした果実はとても甘くて美味しかった。