やむことなき

オートを飛び出したマリーと、彼女を迎え入れる者達の話。
ケルマリとギュスレスです。

※リマスター追加シナリオの要素あり


 

(ひどい雨だな)
 哨戒中だったケルヴィンは強くなる一方の雨足にうんざりした。顔を打つ雨粒は痛い程になってきており、そろそろ引き上げなければ皆もろとも体調を崩しかねない。馬達もぬかるみの中では走れないだろう。
 そう思っているまさにその時、濡れた道を跳ぶような脚音が聞こえてくる。
 ケルヴィンは眉をひそめた。白く霞む雨の流れの合間に何かが——誰かがギンガーに乗って駆けてくる。
 兵士ではない。戦場には似つかわしくない、桃色の衣とたなびく金の髪を認めた瞬間、ケルヴィンは他の誰よりも先に駆け出していた。
「マリー様?!」
 ギンガーの頭に伏せるようにしていた顔が持ち上がり、青白い顔をした女性の唇が小さくわななく。
 馬から滑り落ちるように崩れたマリーをケルヴィンは両腕で抱きとめた。髪も服も濡れそぼり、触れた身体は冷えきっていた。
「マリー様!」
 彼がもう一度呼びかけると、マリーは青紫の瞳をまたたいて彼を見つめた後、微かな吐息を残して意識を手放した。

 
 ***

 
「しかしお前、いくらなんでも手を出すのが早くないか?」
「人聞きの悪いことを言うな!」
 ギュスターヴがにやにやと意地悪く笑えば、ケルヴィンは眉尻をあげて噛み付く。
 ケルヴィンが気を失ったマリーを抱きかかえて戻ったのでテルムの城は騒然とした。術で簡易的に身体を乾かした後、マリーは彼女が昔使用していた部屋に運び込まれた。後を侍女たちに任せて、ケルヴィンがとりあえず自分の着替えを済ませたやいなやギュスターヴの訪問を受けたところである。
 開口一番で質の悪い冗談を口にされ、ケルヴィンは苛立った。あまりの剣幕にギュスターヴは笑ったが、すぐにその笑顔を引っ込めた。
「それはさておき、どういうことだ?」
「私にもわからん。マリー様が突然おひとりでいらっしゃったのだ」
 ギュスターヴが真面目な顔になったのを見てからケルヴィンはため息とともに肩を落とした。
「何かがあったのは確かだろう。ひどく震えていらっしゃった。オートで一体何が……」
「ケルヴィンも事情を聞いていないのだな。さて、どうしたものか」
 ケルヴィンが痛ましさに顔を歪めれば、ギュスターヴもうーんと唸る。何も情報がない状態では碌な推測もできない。ましてやマリーは従者のひとりも連れていなかった。
 目が覚めてから本人に確認するしかあるまい、とギュスターヴは友の部屋を後にした。

 

 ***

 

 雨は冷たかった。
 でも、凍てつき傷ついたアニマに比べたら大したことではなかった。
 
 マリーは体を起こすと、ゆっくりとあたりを見渡した。
 見慣れた部屋ではあった。だが、彼女が普段寝ている寝台ではない。
 髪も服も乾いていたが、オートを出たときの格好のままだった。自分の身に何が起こったのかをぼんやりと思い出していると、扉が開いて一人の女性が部屋に入ってきた。
「マリー様! お目覚めになられたのですね」
 入ってきたのは馴染みの顔ではなかった。もっとも、親しいと思っていた侍女達の誰もマリーの味方ではなかったのだ。思い出して、マリーの顔が強張る。
「ここはテルムです。私はヤーデ伯爵家に仕えている侍女で、レスリーと申します」
 ヤーデ伯爵家、心の中で復唱してマリーは思い出す。確か、伯爵の嫡男であるケルヴィン付の侍女だと以前に紹介された娘だ。レスリーの気遣わしい視線を受けてマリーはぎこちなく微笑んだ。醜態を恥じながらも、表情を取り繕いきれない自身が情けなかった。
「お召し物を用意いたしますね。お疲れでなければ、湯浴みもされますか?」
「ありがとう、レスリー。そうさせていただきます」
 せめて身なりだけでも整えよう。心乱れたまま、マリーはレスリーの提案に頷いた。
 
 
 身を清め、用意された衣服に着替える。着替えの手伝いや髪の手入れはレスリーが主に行い、部屋にはほんの数人しか出入りしなかった。興味本位の質問や視線を受けずにすんだのはありがたかった。マリーはオートで常に感じた遠慮のない視線を思い出してまたため息をついた。
 テーブルの上に紅茶と簡単な食事を用意されると、マリーは一人で部屋に残された。何かあれば隣室にいるからとレスリーも下がる。
 食欲はなかったが、あたたかいお茶は身に沁みた。無計画にオートを飛び出してしまったが、これからどうすればいいのだろう。身体は重たく、いくら思考を巡らせても考えはまとまりそうになかった。とにかく休めと言われたことに甘んじて、今日はもう眠ることに決める。
 寝支度のためにレスリーを呼ぼうと隣室の扉に近づいたところで中から話し声が聞こえることにマリーは気づいた。扉を少しだけ押し開くと、くぐもっていた声が明瞭になる。
 
「出会って間もない他人にすぐに事情を話せるわけないでしょう」
 レスリーが呆れた声を出していた。背を向けているのでマリーの入室には気がついていない。
「女だから話しやすいだろうとか、そんな単純に考えないで」
「いや、それはだな……」
 言葉に詰まってたじろいでいるのは、マリーの兄のギュスターヴだった。彼はレスリー越しにマリーの姿を見つけると、顔を引き締める。
「マリー、大丈夫か?」
「マリー様?」
 レスリーも振り向いて彼女の存在を認めると目を伏せて目礼した。一歩下がったレスリーのかわりに前に進み出たギュスターヴがマリーの正面に立つ。
 ギュスターヴはじっとマリーの目を見つめる。視線をそらしたくなる一方で、抗うことを許さないその瞳にマリーは見つめ返すことしかできない。
「単刀直入に聞く。何があった?」
 レスリーがギュスターヴにいかめしい視線を飛ばしたのが目の端に見えた。ギュスターヴは構わず、マリーの返答を待つ。
「それは……」
 マリーは唇を震わせたがそれ以上の音は出てこない。混乱しているとはいえ、何があったかをそのまま語ることはできるだろう。だがそうした場合、カンタールの立場はどうなるのか。マリーはどうすればいいかすぐには判断がつかなかった。
「オート侯妃ゆえに答えられない、か?」
 マリーは少し迷った後、首を縦に振った。
 ギュスターヴは息を吐いて、自分のこめかみをかく。
「良いだろう。今日は休め、マリー。後のことはこっちで考えておく」
 ふっと表情を和らげるとそこには兄としてのギュスターヴがいた。言うべき言葉をなくしてしまった彼女に微笑むと、レスリーに目配せをして部屋を出ていった。
「マリー様、先程は失礼をしました」
「いえ……ギュスターヴお兄様とは?」
 レスリーがマリーに改めて謝罪をすると、マリーは頭に浮かんでいた疑問を口にした。そしてこれではまるで詮索しているようだと思いなおす。
「聞き苦しくて申し訳ありません。ギュスターヴ様は幼い頃から存じ上げているもので……」
「こちらこそ不躾に失礼をしました。ご友人でいらっしゃるのね。少し……羨ましいです」
「マリー様?」
 マリーはぽつりと零してしまったのを誤魔化すように首を振ると、もともとの用事をレスリーに伝えた。

 

 ***

 

「それで、オート侯はなんと?」
「了承の返事だけだ。それ以上は何もない」
 険しい顔をしたケルヴィンに、ギュスターヴは淡々と答えた。マリーがテルムに来てから数日後、フリンを交えた三人はギュスターヴの部屋で彼女の処遇について話をしていた。
「オート侯カンタール殿とマリー様が不仲という噂があるけど……」
 フリンが心配そうにするが、ギュスターヴは難しい顔を崩さない。
「いや、カンタールがわざわざよこしたのかもしれん。俺がテルムに戻った今、マリーは何よりも有効な斥候になりえるからな」
「マリー様がそんなこと!」
「本人が自覚してるかは別だ、ケルヴィン」
 気色ばむケルヴィンを見据えてギュスターヴは言い放つ。その声が持つ冷たさに、ケルヴィンは堪らず席を立った。
「どこへ行く」
「どこでもいいだろう!」
「おい、油断して情報をもらすなよ?」
「わかっている!」
 ケルヴィンは苛立ちを隠そうともせずに部屋を出ていく。乱暴に閉まる扉の音にフリンが肩をすくめた。
「……あいつ、好きな女のためには国をも傾けかねないぞ」
 ケルヴィンのわかりやすさにギュスターヴは半ば呆れ、半ば愉快そうに笑った。フリンがそれをたしなめる。
「ギュス様言い過ぎだよ。ケルヴィンは誰よりもヤーデのことを思ってるんだから」
「どうだか。そういうやつの方が危ういんだ」
(ボクにはギュス様も危うく思うけど……)
 フリンはギュスターヴをちらりと見てからその感想は胸にしまっておいた。かわりに話を戻す。
「マリー様は多分大丈夫だよ」
「お前の意見はあてにならん」
「ひどいよ、ギュス様。ボクだっていろんな人を見てきたんだから、なんとなくわかるよ。ギュス様だって本当は信じたいんでしょ? そういう顔してるよ」
 フリンが見ると、ギュスターヴは驚いたように目を見張った。絶句した後、くしゃくしゃと自分の前髪をかき混ぜると、彼はふぅと息を吐いて椅子の背もたれに体を預けた。
「お前も言うようになったよなぁ」
「見直した?」
「調子に乗るな。それよりも調べてきたことを報告しろよ」
「はい、ギュスターヴ様」
 フリンがにんまりとすると、ギュスターヴは面白くないとばかりに唇を尖らせた。
 

 ***

 
 ——マリーは、二十年ぶりに再会した兄と両親の思い出話をするためにテルムにしばし滞在することとなった。
 それは随分と苦しい言い訳ではあったが、カンタールも抗議はしてこないと思われた。
 果たして、幾日待とうともカンタールからマリーへの直接の便りはなかった。ギュスターヴには了承の返事があったから、すぐに帰還を言い渡されることはないだろう。
 それはマリーにとって良いとも悪いともとれる情報だった。
 フィニーとの間でたちまち戦乱になることはないことには安堵したが、オートから彼女の世話をするために誰一人としてやってこなかったことはマリーを曇らせた。
 見放されたのだ。マリーがどこへ行こうがカンタールにとっては——そしてオートにとっても、どうでも良いことなのだ。少なからずオート侯妃として心を砕いてきたマリーにとって絶望を感じるには十分すぎた。
 
 マリーはかわりに度々兄や兄の友人達の訪問を受けた。特にヤーデ伯子息のケルヴィンは毎日欠かさずに顔を見せていた。フィニーを掌握して間もない兄が忙しいのはもちろんのこと、ケルヴィンも同じく暇ではないだろう。彼女の為に時間を割いてくれるのが心苦しくもあった。しかし、それ以上に心強かったのが正直なところである。
 
「いっそ、本当のことにしたらどうでしょう」
「本当のこと?」
「思い出話のことです。ギュスターヴ様ともですが、僭越ながら私もソフィー様のことは存じ上げていましたので」
 マリーが首を傾げれば、ケルヴィンは慌てて咳払いをしてみせた。
「もちろん、マリー様が私めの話を聞いてくださるのであれば、ですが」
 実際に思い出話をしよう、と彼は提案したのだ。その申し出に、そしてケルヴィンの赤く染まった頬にマリーは己の凍りついたアニマがじんわりととかされていくのを感じた。
 ケルヴィンの眼差しは温かい。ながらく感じて来なかった視線を自分が受けていることがマリーには俄に理解できなかった。
 好意的な眼差しだ。でも兄のギュスターヴから受けるものや、その子分と称するフリンから受けるものとも何か違っている。
 その違いがあと一歩でわかりそうなのに、まるで知りたくないような不思議な感覚にマリーは戸惑っていた。蓋を開けてはいけないと言われている箱の中身をのぞこうとするような、怖くて、でもそれでもなにが入っているのかを確かめたくて揺れる気持ち。
 考え込むうちにマリーは似た眼差しを他で見たことがあるのに気がついた。
 テルムの城内を散策していると、たまにギュスターヴがレスリーと会話しているところを見かけた。マリーの前では畏まった言葉を使う二人が、他に誰もいないとき、あるいはケルヴィンやフリンとだけ一緒にいるときは気安い口調で話すのをマリーはやはり羨ましく感じていた。
 ギュスターヴとレスリーは時には談笑し、軽口を叩いたり、そして時にちょっとした口論をしていたりもした。その時に兄がレスリーに向ける視線——その眼差しは温かった。レスリーがギュスターヴに向けるものもまた同じ色を帯びていた。
 マリーはそこで気がついてしまった。その眼差しの意味を。ケルヴィンが彼女に向ける感情の正体を。
 

 ***

 
「レスリー」
 お茶を淹れてくれたレスリーに、マリーは傍らの席を勧めた。レスリーは少し迷うような仕草を見せたが、マリーの隣へと腰をおろした。
「レスリーはお母様のことをよくご存知なのでしょう?」
「はい、ソフィー様には随分良くしていただきました」
「亡くなる前の看病はレスリーがしてくれたとか?」
「ええ。あまりお役に立てなかったのですが」
 謙遜するレスリーにマリーは首を横にふった。
「私は母を知りません。父も私に見向きもしませんでした。フィリップお兄様や弟のギュスターヴとは共に過ごすこともありましたが、私はきっと愛というものを知らないのです」
 兄の内に母のアニマを感じた。生まれて間もなく離れ離れになった母だが、それでも懐かしかった。あの『再会』は長年の寂しさを埋めてくれた。
 でもそれだけでは足りないのだ。
 マリーは、知りたかった。
 母のことを。あの眼差しのことも。
「レスリー、お母様のことをもっと教えて。お母様のことと、そしてあなたのことも。もっとよく知りたいのです」
 レスリーがギュスターヴに向ける眼差しは愛に溢れていた。だからもしかしたら彼女とも話をすれば、マリーはケルヴィンの眼差しの意味を真に理解することができるかもしれない。
 彼の温かいアニマをあの日から忘れられない。その意味に目を逸らさずに向き合うことができるのかもしれない。
 真剣な瞳で見つめるマリーに、レスリーは「もちろんです」とはにかんだ。
 
 
 ハン・ノヴァのバルコニーでマリーがケルヴィンに打ち明け話をするのはまだもう少し先のこと。

 


First Written : 2025/05/28