また明日

佐賀に遊びに行くヨハン・ヴァンアーブル・ミーティアのお話。
友人の御本に寄稿したお話でした。


 

 

 テーブルの中央に置かれた小鍋に火をつけると、ぐつぐつと煮えた湯から白く淡い湯気が立ちのぼっていく。高まる期待をおさえて、胡麻をすりつぶし、タレを手元の器に入れる。鍋の中に入った白い四角が丸みをおびてとろけていくのを確認すると、それを木のスプーンで掬いとり、まずはそのまま一口。なめらかな舌触りを堪能すると、また一口すくってタレに絡める。文字通り舌の上でとけていくので一口は二口になり、あっという間に数えられなくなる。
 
 豆腐というものを食べるのは初めてだった。それもただの豆腐ではなく、温泉湯豆腐なのだという。鍋には野菜を追加して食してもいいし、最後は米を混ぜるとまた違う味わいになる。
 旅に出てからというもの、見聞きした何もかもが新鮮だった。
 サンダイルならそれなりに大陸を歩き渡ってきたつもりだ。とはいえ、それは決して『旅』と称して良いものではなかった。任務あるいは、逃亡。
 こうして世界を観て、随分と視野が狭かったものだと思う。存在を消していたのは自分の方だが、その自分も実際のところ何も見えていなかったことに気づく。
 生きるのに必死すぎた。限りある命では、目の前にあるものが己の指の隙間からこぼれ落ちていかないように守るだけで精一杯だったのだ。
 やっと手に入れた、自分の居場所を——

 
「ねぇ、ヨハン」
 ふと、横に座っているヴァンアーブルの声が、スプーンを握ったまま止まっていたヨハンを呼び戻す。
「今、君が何を考えているかあててみようか?」
 悪戯っぽく笑った少年はすっと表情を消してみせる。
「ギュスターヴ様にも、ぜひ食べていただきたい」
 図星をさされた気まずさと、特段似ていない声真似に返すべき言葉がわからず、ヨハンは押し黙ったままヴァンを見つめ返した。
「……ヨハンはいつもギュスターヴ様のことばかりだね」
 ヨハンが表情を崩さないのを見てとると、ヴァンはやや頬を膨らませながら拗ねてみせた。ヨハンよりも幼い姿のヴァンがそうしてみると本当に子供のようで、ヨハンはいくらか目を和ませる。
「悪い」
 今この場に『あの方』はいない。不在の人物に思いを馳せるのは同行してる者に対して失礼だったかもしれない。そう思ってヨハンは詫びると、ヴァンは首を横にふった。
「いいよ。ヨハンがちゃんと楽しんでいるのは見ててわかるし」
 美味しいよね、とヴァンは湯豆腐を一口食べた。口の中にひろがるほの甘さに彼は破顔する。無表情が常のヨハンと違って、すぐそうやって素直に顔に出るのはヴァンの良いところだ。
 ヴァンは自分の器にもう一度豆腐を掬うと、噛み締めるかのようににんまりとした。
「それにね、僕は君がそうやって『次は』って考えてくれるのが嬉しいんだよ」
「次……」
 ヨハンはゆっくりとその言葉を反芻した。
 自分には到底無縁だと思っていた言葉だ。己にはせいぜい今を生きぬくことしかできないのだと。日毎に弱りゆく身に明日がある保証などなかった。
 それが何の因果か、今は体が羽根のように軽い。サソリの毒なんて最初(はな)から存在しなかったかのように、夢幻(ゆめまぼろし)のように消え去っている。
 主にお前はもう自由だと言われても何をすれば良いのかわからず戸惑ったものだ。今までできなかったことをやるんだよ、と引っ張り出してくれたのは隣にいるヴァンだった。どこに行くかさえ迷って動けずにいるヨハンにあれこれとプランを用意し、実際に連れ立って歩き、さまざまなものを共に体験してきた。

(——次、か)
 ヴァンと色々見てきたおかげで、ヨハンも少しずつ先のことを考えることができるようになった。だから、明日を、未来を望むことができるとしたら。

「『次』の時も、お前は一緒に来るんだろう?」
「え、いいの?」
 
 それはきっと彼と共に過ごす時間になるであろう。
 ヨハンは自然とそう思えた。

「俺がギュスターヴ様と二人だけで出かけたらすぐ拗ねるくせに」
「それは、そうだね」
 ふふっと顔を見合せて笑っていると、店の入口から元気な声が響く。
「ヴァンせんせーい!」
「遅かったね、ミーティア」
 跳ねるような足取りで二人の元へ駆けてきたのはヴァンの弟子のミーティアだ。どう見ても十代前半のヴァンアーブルに対してミーティアは二十代の姿なのだから、師弟というよりは年が離れた姉弟のような出で立ちである。召喚された元の時代が違うというのも、この世界における不思議の一つである。最初こそ困惑したが、今となってはそれも受け入れている。
「もう豆腐がすっかり出来上がってしまったよ」
「すみません。でも、面白いものがありすぎて、お土産一つ選ぶのも難しいんですよー」
 このでこぼこ具合にも随分馴れたものだ、とヨハンは思う。出会った当初はミーティアの勢いに圧倒されたものの、彼女の真っ直ぐな明るさは眩しく、ある意味で羨むべきだった。持ち前の幸運も、旅の共としては悪くなかった。
 
「あ〜、美味しい」
 二人の真向かいの席に座ったミーティアは豆乳鍋の後の雑炊も堪能し、目をキラキラと輝かせた。
「ここのお店、アイスもあるみたいですよ!」
「お豆腐おかわりしたのにまだ食べるの? 確かに気にはなるけど」
 やや呆れた口調になるヴァンに対してミーティアはとんでもないとばかりに目を丸くする。
「当たり前ですよー。食べなきゃ損です! 世界にはこんなに美味しいものがたくさんあるんですよ? 大丈夫です。少し体を動かしたらすぐまた食べれますよ」
「それはミーティアだけじゃ……」
「ヴァン先生、若いのにじじくさいです。もっと元気だしていきましょう?」
「師匠に向かってその言い方は無いんじゃないの」
 目の前で繰り広げられる笑劇にヨハンは思わず小さく吹き出した。
「あ、ほらヨハンさんも笑ってる! お二人もまだまだこれからですよ!」
 胸の前で両の拳を握りしめて力説するミーティアをヴァンが窘める。ヴァンからしたら未来の弟子に知らぬ間に懐かれているようなものだが、それでも随分と楽しそうだった。
 
 主がいて、友がいて。
 でも、ヨハンがかつて知っていた世界とは何もかもが違う未知が目の前にひろがっている。そこへ一歩ずつ足を踏み出す。
 
 そんな旅が、明日も続いていく。


First Written : 2023/11/05