エンディング後のテメノスとソローネ。
ソローネは度々テメノスのところに羽休めに来てるといい、という妄想。
世界は平和になった。
もちろんそんな言葉で片付くような簡単なものではなく、ただ実際にはソリスティアの危機などとは無関係に人々の暮らしは続く。それぞれ大小はあれども、何かひどい悪夢を見ていたと割り切られ、日常は流れていく。真相を知るのはほんのひと握りの人間(と獣人)だけで、残りの大半についてはわけがわからぬものとして忘れ去られる。夜は明けて朝が来て、また夜が来て朝になる。
そういう意味では『平和』なのかもしれない。と、テメノスは思考の沼から浮上する。
あの長い『夜』が明けてから幾度か旅に出たものの、足は自然とフレイムチャーチに戻ってきていた。旅の途中で新たに落ち着く先が見つかるかと思ったが、結局はここが『帰る』ところなのだろう。それがきっと故郷というものなのだ。忌むべきことがあった地でも幼い時から積み重ねてきた時間は消しきれない。たいしたものを置いていない粗末な小屋でも愛着はあるものだ。
——『彼女』の場合はどうだろうか。
ふと脳裏を影がよぎるのと、同時に扉を小さく叩く音がある。日はとうに落ち、寝支度をする頃である。こんな夜更けに訪れるのは一人しか思い浮かばない。
虫の知らせというやつだろうか、とテメノスは一人ひっそりと頬をゆるませた。
「元気? 名探偵」
「ソローネ君」
扉の外には予想通りの人物が立っていた。旅をしていた頃と寸分変わらぬ姿にどこか安堵しつつも微かに気がかりを覚える。
食事はと尋ねれば済ませたという。彼女のことだからそれはきっと嘘だが、食べる気分でもないということだろう。食卓の近くの椅子をすすめるつもりが、彼女は部屋に入るなり暖炉の前まで歩いていくとその手前の絨毯に腰を下ろした。足音が聞こえないのは以前と変わらない。
彼女の薄着では随分と冷えたのがうかがえる。最近は日中でも羽織が必要なくらいだ。暖炉では火が焚かれている。
テメノスは彼女の目の前にマグを差し出し、自分もその隣りに座り込んだ。あの旅中で野営をしていた頃がふと懐かしくなる。
「子供じゃないんだけど?」
ソローネはほんのりと湯気がたつホットミルクを一瞥した後、眉を顰めた。
「よく眠れますよ」
「別に寝に来たわけじゃないから」
「あいにく酒の類は切らしていまして」
「そう。次はワインでも手土産にするよ」
彼女はそう言って、マグを両手で包むようにして持つと、ふぅと息を吹きかけて一口啜った。
「ちょうどいる時でよかったですよ」
「いなかったらいなかったでいいんだけどさ。テメノスはここに帰ってきてる気がしたんだよね。……で、何笑ってんの?」
「いいえ、何も」
いつだったか、淹れたてのお茶に躊躇わず口をつけようとしたソローネに度肝を抜かしたパルテティオが慌てて止めに入ったことがあった。熱々と湯気がたつマグを取り上げて、アグネアとオーシュットがこうやって冷ますんだよとふぅふぅと実演して教えていた。キャスティはそれ以後、適温の飲み物しか出さなくなった。
過酷な環境故に痛覚を無意識に鈍らせていたようだ。特に深い意味をもたなかった反射的な行動に、全方向から自分を大事にしろと叱られたソローネは目を丸くしていたが、その教えはきちんと覚えているようだった。
今、ちびちびとミルクを口に含む姿が子猫のようで可愛らしいなんて、返り討ちが恐ろしくてとても言えない。迷える子羊に牙をむかれるのはごめんだ。
「ソローネ君はどちらへ?」
「気の向くままにかな」
「そうですか」
彼女の曖昧な返事に対してそれ以上は聞かず、テメノスは自分のために入れたミルクを飲んだ。しばしの沈黙の後、ソローネはまた口を開いた。
「ニューデルスタにもたまに立ち寄るよ。最近は劇場にアグネアも来てるみたいだしね」
「彼女の評判は上々のようですね」
「ほんと『スター』って感じ」
そしてまた沈黙。
暖炉の薪が爆ぜ、炎が彼女の横顔を煌々と照らしている。揺らめく光がソローネの背に影を落とす。その影から異形の魔物が現れる——なんてことはもうないのだが。
彼女が自分の首筋を撫でるのをテメノスは眺めた。その癖はどうやらまだなおっていないようだ。
「空っぽ、なんだよね。あの街は」
上層のスターのお膝元の方じゃなくて、ね。と彼女は付け加える。
「何か大きなものが無くなってるのに、それでも何も変わっていない」
それが薄ら寒くて居心地が悪いのだ、と彼女は呟いた。飲み終えたマグを傍らに置く。
「あーあ、自由ってもんは案外不自由なもんだね」
ソローネは火から目を背けて身体ごと横を向くと、そのままテメノスの肩に背中を預けるようにもたれかかった。垂れ落ちた前髪を横に払うかわりに手のひらで目元を隠す。
「外が眩しすぎて疲れてしまう。暗闇になれすぎたのかな」
ソローネはまた大きく嘆息し、天井を仰ぐ。
「自分の足でどこでも行けるようになったはずなのに、どこにも行けない」
まるで見えない首輪があるかのよう。あれだけ逃れたくてもがいたというのに、『飼い主』がいなければ、どこにも居場所が無い。鎖が外れた足で踏みしめる大地はどうにも頼りない。
「私も似たようなものですよ」
「テメノスは違うでしょ」
触れた背中が一瞬小刻みに揺れ、彼女が笑ったことがわかる。それは彼女自身を嘲たようで、彼は眉間に薄く皺を寄せた。なかなか厄介な子羊がいたもんだと考え、そもそも素直に説教を聞く可愛げがあればこんなところに立ち寄らずに、とっくに聖火神の元で祈りを捧げていたかと思い直す。
祈りの言葉をもたない彼女を異質とは思わない。テメノスとて聖典の言葉は口にせども、そこに想いを乗せるほどの心は持ち合わせていなかった。そういったものはとうの昔に忘れてしまった。
自分が彼女とそれ程違うとは思えない。どちらかというと以前旅した仲間内の中で一番波長があうとさえ感じている。陽の光が似合うと思われているならば、それは彼がうまく擬態できていることにほかならない。
「行きたい時に行ける、それで十分ではないですか?」
旅に出て新たなものを見る。視界をひろげ、見識を深めるのは良い刺激になる。心が羽ばたく。とはいえ、新天地に落ち着く場所はなかなか見つからないものだ。帰る家を自ら壊した彼女なら、なおさら足元がおぼつかなくても仕方がない。
「誰だって一息に走ったら疲れるものですよ。休みたくなります」
歳をとると息切ればかりです、とこぼせば、じじくさーいと揶揄する声が横で聞こえた。
「あ、でもそうか。だから——」
「だから?」
「——んー」
言葉はそこで途切れる。その先を勿体ぶっているのか、口に出したくないのか。テメノスにとってはどちらでもよかった。言葉というものはひとつの道具でしかない。肩に触れる温かさからわかることもある。
とはいえ。
「ちょっとソローネ君? 今、全身の体重を私にかけていませんか?」
「年頃の乙女に『重たい』とか言わないよね?」
「年頃の乙女を自称するのならば、もう少し節度というものがありますよ」
「説教くさい」
「これでも神官ですよ、当然でしょう」
ソローネの背がテメノスの肩を揺らす。愉快そうに、笑っている。
無理に暴く必要も導く必要も無い。少し話をして、笑みを浮かべることができたなら。
『故郷』なんて、どこにあってもいいのだ。
First Written : 2023/08/02