忘れじの詩 - 2/10

***

 一瞬の不覚が命取りとなる。魔物の術が唯一の武器を俺から奪った。
 残った腕でフリンを抱えながらなんとか砦を抜け出たものの、樹海には血に飢えた魔物どもが待ち構えていた。
 運命というやつが追い打ちをかけてくるのか。抗うな、受け入れろと言わんばかりの声を振り払い続けても、身体が耐えきれなかった。
 せめて。せめて幼少の頃から付き従ってきた子分を——仲間をこの手で守りたかった。それすらも叶わないというのか。
 絶望が胸を支配する。
 目が霞む。瞳に映るものは暗い影ばかり。
 ただかすかに、自分の名前を呼ぶ声がきこえた気がした。
「さま……。……私の声がきこえますか?」
「……せ、んせい?」
 かろうじて自分の喉から出た声はひどく掠れていて、音になったか定かではなかった。
 誰かの手が身体に触れた——自分にはまだ身体があるらしい。そこで、ぼんやりとしていた思考に火が付く。
「フリンは?!」
 身体は動かなかった。目も見えないままだ。だけど、俺はあいつだけは死なせるわけにはいかなかった。不甲斐なさに打ちのめされる中、なだめるようにもう一度、手が触れた。
「こちらにいますよ」
「よ、かっ……」
 そこでまた俺の記憶は途切れた。
 
 
 
 
 それからのことはよく覚えていない。
 苦痛に喘ぎながら、夢なのか現なのかわからないまま時を過ごした。
 口へと運ばれる液体のようなものを無心に嚥下する日々。頭も体もうまく動かない中、己の耳に響く鼓動の音を頼りに俺は生き続けた。
 ただただ生きのびたかった。ここで死ぬわけにはいかなかった。
 犯した罪を償うためには死をもっても足りないと考えていたはずなのに、今では死ぬのはあまりにも罪深いことのように思えた。
 ヨハンが俺をここにつなぎとめる。フリンがだめだよ、と笑う。ケルヴィンがいい加減にしろと怒る。レスリーが泣く。
 ぐるぐるといくつも顔が浮かんでは消えていった。
 
 
「気がつきましたか?」
 その声をはっきりと認識できるようになったのは随分後になってからだ。
 相変わらず重たいまぶたを開けると、緑の瞳がのぞき込んでいる。幼い頃から俺を見てきた瞳だ。
「ヴァンは……」
「おかげさまで無事ですよ」
「よかった……」
「全く、あなたという人は。ヴァンアーブルは私の大事な弟子ですが、あなただって私の大事な教え子だということを忘れないでください」
「……はい、シルマール先生」
 叱る声が優しくて、俺は思わず気が抜けた笑いを浮かべた。実際にそう見えたかどうかはわからなかった。なにせ、何もかも思ったように動かせないのだ。
 俺は砦で左腕を失った。試しに意識を凝らしてみたが感覚が無い。長い間眠っていたようで筋肉が衰え、たとえ両腕が満足に揃っていたとしても自分で起き上がることも困難だろう。
 それでも恩師が介抱してくれたおかげで、思考は幾分まともになったようだ。
「シルマール先生、フリンは?」
 先生の瞳が翳ったのがわかった。
「フリンのアニマは大地に還ってはいません。無事、とは言えませんが、隣の部屋で眠っています。時折目を覚ますこともありますが、余談は許さない状態です」
「そう、ですか」
「今は信じるしかないでしょう」
「はい……。フリンには会えますか?」
「そうですね。数日中にでも……あなたが立てるようになれば、会えますよ」
「はい」
 予想はできたことだが、事実は重くのしかかる。
 フリンが負った怪我をあの場で十分に手当することができなかった。あいつを最後まで守ってやれなかった。シルマール先生がいなければ、あの森で二人ともモンスターの餌食になっていたことだろう。
 それでも生きているならば。まだ生きているならば、望みはあるのかもしれない。
 絶望に押しつぶされて生きる気力を絶やすわけにはいかない。とにかく今はまず自分が動けるようにならなければ。少しでも早くあいつの顔を見るためにも、とまだ使えるはずの右手に力を込めてみる。
「ギュスターヴ様、あなたに伝えないといけないことがあります」
 シルマール先生の顔が歪んで見えた。先生が何を言おうとしているのか検討もつかなかった。
「あなたが生きていることはまだ誰にも伝えていないのです。あなたをここに運んでからもう数週間が経つ。その間、私はあなたを生きながらえさせることだけを考えていた」
「では、みんなは……」
 はい、と先生は頷いた。
「あなたが死んだと思っています。ヴァンにも言っていません」
「……」
 その言葉をどう受け止めていいのか俺はすぐにはわからなかった。
 ギュスターヴ十三世は死んだことになっている。事実として俺はこうして命を繋ぐことができているが、寝ている間に時間は着実に進んでいた。
「身体が快復した後に戻るのかどうか、あなたが決めた方がいい。私はそう考えたのです」
 すみません、と先生は謝った。その時の先生は何故かとても年老いて見えた。
「先生、私に謝る理由なんてありません。助けていただき、ありがとうございます。こうしてまた先生とお話ができるのもあなたのおかげだ」
 俺は自分の右手を持ち上げてみた。自分の腕とは思えないぐらい重たい。それでも、動いた。
「よく考えて、どうするか決めます」
 
 戻るのか、戻らないのか。
 戻りたいのか、戻りたくないのか。
 すぐにはわからなかった。
 
 ——生きたい。
 その炎だけが俺の胸を燃やしつづけていた。