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それからしばらくして、体を起こすことができるようになった俺はシルマール先生に助けてもらいながら隣の部屋へ入った。寝台の近くの椅子に座らせてもらうと、「戻るときは声をかけてください」といって先生は部屋を出ていった。
フリンは横になって目をつむっていた。顔は青白く、額に髪がはりついている。眠っていてもなお苦しそうだった。それでも小さく上下する胸がこいつがまだ生きていることを証明していた。
「すまん」
いつまで寝てるんだ、と軽口の一つでも言うつもりが言葉になったのはそれだった。
「……すまん、フリン」
俺のところに戻ってきたばかりに。こんなことになるべきじゃなかったのに。
何度も繰り返した後悔が再び押し寄せたとき、フリンのまつげが小さく震えた。
「ギュス、さま?」
「フリン!」
ちらりとのぞいた瞳がゆっくりと開かれる。俺を見つけたフリンはへにゃりといつものように笑った。
「ギュス様、無事でよかった」
「こっちのセリフだ、バカ」
「へへ」
「何を笑っているんだ」
「だって嬉しいんだ。またギュス様に会えた」
これ以上嬉しいことはないよ、とフリンは心底幸せそうにする。鼻の奥が痛んだ。恨み言の一つや二つぐらい言えばいいのに。なんでこいつはいつもこうなんだ。
「ギュス様、ごめんね。足がうまく動かないんだ。多分もう駄目なんだと思う。足が速いことだけが自慢だったのに、また役立たずになってしまったよ、ボク」
「お前のせいじゃない。あのとき、俺に回復術が使えたなら」
「そういうのはいいっこなしだよ、ギュス様」
顔色は悪いままなのに、いつもと変わらない表情を浮かべるフリンに胸が詰まる。
戦うのは得意じゃないけど、逃げるのはうまいみたいだ、とフリンはいつも言っていた。人にも気づかれにくいし、アニマが弱いことで便利なこともあるんだねぇと笑っていた。
ねぇー、ギュスさま、とフリンが間延びした口調で俺の名を呼ぶ。
「ボク達、できないなりに頑張ってきたよね」
「……そうだな」
「砦でも危ないところだったけど、こうやって一緒に脱出できた」
逃がすべき者を逃して時間を稼いだ。フリンが戻ってきたから、俺も生きる努力をすることに決めたんだ。
「そうだな。よくやったよ。……お前のおかげだ、フリン」
「褒めてもらえるの照れるなー。ありがとう、ギュス様」
フリンはふふふと笑って目を伏せた。
あとは身体を癒やして、元のように動けるようになるだけだ。そうだろう?
そう口に出すつもりが、何故か音にならない。
フリンは少し遠くを見るような目になった。
「ボク達、危ないところをずっと走ってきたよね。足りないものがあるから、何かを手に入れる為には走らないといけないんだと思ってた」
フリンはゆっくりと息を吐いてから、顔を俺の方に向けた。じっと真っ直ぐに見つめてくる光がゆれる。
「ボクはギュス様がいたらどこまでだって行けた。だけどもし、ギュス様が走るのをやめたいなら……もう家に帰りたいっていうのなら……。ボクはそれでいいと思うんだ」
「フリン……?」
フリンの言葉が俺の中に波紋をつくる。俺は、家に帰りたいのか? 俺が走り続ける意味は? もやもやとして答えのでない問いがぐるぐると混ざり合う。
はっきりしているのは、フリンは俺が決めたことにずっと付き合ってきたこと。そしてそれはこれからも変わらないのだと俺は疑いもしてなかった。
「ボク、ギュス様と会えてよかった」
「これからも、一緒なんだろう?」
動揺して声がふるえた。怖かったんだ、俺は。
「うん、ずっと一緒だよ、ギュス様」
フリンが目を細めて笑った。
数日後、フリンは息を引き取った。
苦しかったろうに、最期は眠るように穏やかに冷たくなっていた。
フリンのアニマはいつだって俺のそばにいる、とシルマール先生は言った。母上が亡くなった時にも先生は同じようなことを口にしていたことを思い出す。
——『フリンには優しくしなさい』
俺は母上の言いつけを守れていただろうか。
優しくなんて、なれなかった。母上はこうなることをわかっていただろうか。
『ボク達、危ないところをずっと走ってきたよね。足りないものがあるから、何かを手に入れる為には走らないといけないんだと思ってた』
出来損ないだから、欠落した部分を埋める何かをずっと探し続けていた気がする。
『ずっと一緒だよ、ギュス様」
こぼれ落ちた雫がつくった波紋。ようやく何かが腑に落ちた気がした。
『周りの人たちとの関係を大事にしなさい。そうすれば、皆もあなたとの関わりを大切にしてくれます』
すまん、フリン。
俺はずっと、一人じゃなかったんだな。
今になって、ようやくわかったんだ。
ずっと一緒なんだよな、これからも——