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大きい音をたてて、ギュスターヴが倒れる。
派手な音に肩が震えたが、私はその場を動かなかった。こうなることはわかっていたことだ。
私は息を詰めたまま、項垂れたギュスターヴの目の前に立つ『彼』を見つめた。
ギュスターヴの頬を力の限り殴った彼——ケルヴィンは、彼自身が殴られたかのような顔をしていた。瞳に溜まりゆくもので視界が揺れる。でもそれはケルヴィンも同じだった。
「お前! なんで今まで!!」
言葉に詰まりながら、ケルヴィンが絞り出すように声を出す。聞いている私まで胸が苦しくなってくる。
「こんな姿になって……!」
「すまない、ケルヴィン」
ギュスターヴが謝ると、ケルヴィンがギュスターヴの前に跪いた。
「このバカが……! よく、よく生きていてくれた……」
ケルヴィンの声色が変わったのを感じて私は肩に入れていた力を抜いた。
差し出されたケルヴィンの手をギュスターヴが掴んだのを見届けてから、私は二人のもとをそっと離れた。
新しい生活に慣れてきた頃、ギュスターヴが決めた。ヤーデに戻ってきているケルヴィンには生存を伝える、と。これ以上『ギュスターヴ』のために戦う必要はない。そう告げるつもりなのだと思う。
テラスで二人にお茶を出すと、私は部屋の中に引き込んだ。積もる話は二人だけでする方がいい。もしかしたら、ケルヴィンが来たことで何かが変わるかもしれない。どう話が転ぼうと私がすることは一緒のはずだった。
「レスリー」
ソファに座って待っている間にうとうとしていたらしい。名前を呼ぶケルヴィンの声で私は目覚めた。
「ケルヴィン、ごめんなさい。もう話は終わった?」
ケルヴィンは上着も着込んですっかり帰る様相になっていた。ギュスターヴは近くにはいない。大きな音はあれ以上しなかったはずだけど、話し合いはうまくできたのだろうか。のんびりとうたた寝してしまった自分を恥じる。
「あぁ、大丈夫だ。ギュスターヴは少し疲れたらしい」
「そう」
私はケルヴィンの目の前に立って息を大きく吸った。
「ケルヴィン、私もあなたに殴られなきゃ……。すぐに知らせずに、ずっと黙っていて本当にごめんなさい。ひどい裏切りだってわかっていたのに」
私はグリューゲルに帰ることを決めるまではずっとヤーデ伯子息であるケルヴィンの侍女という立場であった。でもそれは私がギュスターヴのそばに入れるようにと、ケルヴィンが気を利かせてくれていたのにすぎない。
ギュスターヴを縁に繋がりを持ったケルヴィンと私は友人であり、同志であり、戦友のようなものでもあった。お互いにそういう認識だったと思う。
ギュスターヴがメルツィヒの砦から帰ってこなかった時、私達はギュスターヴの死を受け入れざるをえなかった。同じ喪失を二人で分かち合ったのだ。
それなのに——
「レスリー……」
ケルヴィンは困ったように笑った。
「傷ついていないわけではないが、レスリーがあいつの気持ちを優先するのはわかってる」
「……ごめんなさい」
「いいんだ。そもそも女性を殴るような拳は持ち合わせていないのでな」
顔を上げれば、優しい緑の瞳は茶化すような光を帯びて揺れていた。簡単に許されるようなことではないと思うけれど、私もそれに甘んじて笑ってみせた。
「ケルヴィンはこれからどうするの?」
ハン・ノヴァは失われた。東大陸は今やほぼカンタールの手中だと聞く。ケルヴィンはカンタール討伐の名目で兵を集めたものの諸侯の協力を得られず、今は南大陸に引き上げている。
「私は戦い続けるよ」
「でも、ギュスターヴは」
「ああ、やめとけと言われた」
「それなら……」
なぜ? という疑問を抱く。
戦う必要はないと本人に言われてもなお、ケルヴィンは自分の領地から遠く離れた、ギュスターヴが残した領土の為に兵をあげるという。
私の疑問を受けてケルヴィンの顔に影がさした。
「カンタールはギュスターヴをなかったことにしようとしている」
彼は硬い表情のまま口にした。
「メルシュマンではまた術不能者が不当な扱いを受けていると聞き及んでいる。残念なことだが、人の考えというものはそう簡単には変わらないのかもしれないな」
「そんな……」
本人の意思はどうあれ、アニマを持たない鋼の十三世の躍進は術不能者達にとって希望であった。ギュスターヴは東大陸で虐げられていた彼らのための道を切り開いていたといってもいい。なのに、ギュスターヴがいなくなった途端、逆戻りしてしまうなんて——
「ギュスターヴにはそれを?」
「言っていない」
ケルヴィンは首を横に振ってから、ふっと笑った。
「言えなかったよ。あんな晴れ晴れとした顔をしていたあいつには。まるで憑き物が落ちたみたいだ」
ケルヴィンは眩しそうに目を眇めた。
「あいつのあんな顔を見たら、戻ってこいなんて言えやしない」
「ケルヴィン……」
ならばギュスターヴはこのまま、ここに。ケルヴィンに会って気持ちが変わる可能性もあったけど、彼はここに残るんだ。私は安堵していることに気がついた。そしてまたケルヴィンに申し訳なくなった。
「レスリー、君はギュスターヴのそばに頼む。ずっとそうしていたように」
ケルヴィンは微笑んだ。喉が詰まり、こみ上げそうになるものを私はのみこんだ。彼は多分、わかっている。
「ギュスターヴには君が必要だ」
ケルヴィンが改めて口にした。
「昔みたいなことを言うのね」
テルムへ私を呼び寄せてくれた時と同じ口上に懐かしくなる。
「あのときはその言葉を疑っていたけれど……、今は少し自惚れてみることにするわ」
ケルヴィンは途端、目を丸くした。
「君も変わったな」
続けて彼が声をたてて笑いだすので、頬が熱くなる。そんなに変なことを言ったつもりはなかったのに。
「はははっ、肩の荷が降りた気分だ。全く焦れったくて仕方なかったんだぞ。そうか、あいつとうとう言ったのか」
「ちょっとケルヴィン、もうっ」
あははと彼はまた笑った。
きっと私の顔は真っ赤になっているのだろう。一番近くで私達を見ていたケルヴィンが、私がギュスターヴに抱く気持ちを知っていることはずっとわかっていた。指摘される度に誤魔化してきたものの、彼がずっと気を揉んでいたのも、知ってはいた。
だって仕方なかったのだ。私だってずっと隠し通すつもりだったのに、こんな形になるとは思ってもみなかった。
「少しは意趣返しにはなっただろう? ふふ、冗談はともかく、本当によかったと思っている。祝福するよ」
「……ありがとう、ケルヴィン」
気恥ずかしさは消えなかったが、友人からの祝いの言葉は胸にじわりと沁みいった。
嘘をつき、世から隠れ住むのは罪悪感を伴う。
それでも幸せに感じてもいいのだと、そう言われているような気がした。
「ギュスターヴの後は私が継いでみせるさ。あいつの後始末はいつも私の役回りだしな」
諦観の笑みを一瞬浮かべてから、ケルヴィンは頬を引き締めた。
「なに、私自身にも戦う理由がある。一応、義弟ということになるからな。……フィリップのファイアブランドのこともある」
「……そうね。でもケルヴィン、元気でいてね。私はあなたも失いたくない」
「ああ、無理はしないと約束するよ。また来る……とは言えないが、便りは出す」
「ええ。ありがとう、ケルヴィン」
顔を隠すように深々と帽子をかぶった彼を、私は見送った。
私達は友人であり、同志であり、戦友のようなもの。その関係性を続けることができることに深く感謝した。