* * *
大きな音をたてて、ギュスターヴが倒れる。
周りの椅子をも薙ぎ倒した派手な音に肩が震えたが、私はその場を動かなかった。こうなることはわかっていたことだ。
私は息を詰めたまま、項垂れたギュスターヴの目の前に立つ『彼』を見つめた。
ギュスターヴの頬を力の限り殴った彼——ケルヴィンは、彼自身が殴られたかのような顔をしていた。瞳に溜まりゆくもので視界が揺れる。でもそれはケルヴィンも同じだった。
「お前! なんで今までっ!」
言葉に詰まりながら、ケルヴィンが絞り出すように声を出す。聞いている私まで胸が苦しくなってくる。
「こんな姿になって……!」
「すまない、ケルヴィン」
ギュスターヴが謝ると、ケルヴィンがギュスターヴの前に跪いた。
「このバカが……! よく、よく生きていてくれた……」
ケルヴィンの声色が変わったのを感じて私は肩に入れていた力を抜いた。
差し出されたケルヴィンの手をギュスターヴが掴んだのを見届けてから、私は二人のもとをそっと離れた。
新しい生活に慣れてきた頃、ギュスターヴが決めた。ヤーデに戻ってきているケルヴィンには生存を伝える、と。これ以上『ギュスターヴ』のために戦う必要はない。そう告げるつもりなのだと思う。
テラスで二人にお茶を出すと、私は部屋の中に引き込んだ。積もる話は二人だけでする方がいい。もしかしたら、ケルヴィンが来たことで何かが変わるかもしれない。どう話が転ぼうと私がすることは一緒のはずだった。
「レスリー」
ソファに座って待っている間にうとうとしていたらしい。名前を呼ぶケルヴィンの声で私は目覚めた。
「ケルヴィン、ごめんなさい。もう話は終わった?」
ケルヴィンは上着も着込んですっかり帰る様相になっていた。ギュスターヴは近くにはいない。大きな音はあれ以上しなかったはずだけど、話し合いはうまくできたのだろうか。のんびりとうたた寝してしまった自分を恥じる。
「あぁ、大丈夫だ。ギュスターヴは少し疲れたらしい」
「そう」
私はケルヴィンの目の前に立って背筋を伸ばし、息を大きく吸った。
「ケルヴィン、私もあなたに殴られなきゃ……。すぐに知らせずに、ずっと黙っていて本当にごめんなさい。ひどい裏切りだってわかっていたのに」
グリューゲルに帰ることを決めるまで私はずっとヤーデ伯子息であるケルヴィンの侍女という立場であった。でもそれは私がギュスターヴのそばにいられるようにと、ケルヴィンが気を利かせてくれていたのにすぎない。
ギュスターヴを縁に繋がりを持ったケルヴィンと私は友人であり、同志であり、戦友のようなものでもあった。お互いにそういう認識だったと思う。
ギュスターヴがメルツィヒの砦から帰ってこなかった時、私達はギュスターヴの死を受け入れざるをえなかった。同じ喪失を二人で分かち合ったのだ。
それなのに——
「レスリー……」
ケルヴィンは困ったように笑った。
「傷ついていないわけではないが、レスリーがあいつの気持ちを優先するのはわかってる」
「……ごめんなさい」
「いいんだ。そもそも女性を殴るような拳は持ち合わせていないのでな」
顔を上げれば、優しい緑の瞳は茶化すような光を帯びて揺れていた。簡単に許されるようなことではないと思うけれど、私もそれに甘んじて笑ってみせた。
「ケルヴィンはこれからどうするの?」
ハン・ノヴァは失われた。東大陸は今やほぼカンタールの手中だと聞く。ケルヴィンはカンタール討伐の名目で兵を集めたものの諸侯の協力を得られず、今は南大陸に引き上げている。
「私は戦い続けるよ」
「でも、ギュスターヴは」
「ああ、やめとけと言われた」
「それなら……」
なぜ? という疑問を抱く。
戦う必要はないと本人に言われてもなお、ケルヴィンは自分の領地から遠く離れた、ギュスターヴが残した領土の為に兵をあげるという。
私の疑問を受けてケルヴィンの顔に影がさした。
「カンタールはギュスターヴをなかったことにしようとしている」
彼は硬い表情のまま口にした。
「メルシュマンではまた術不能者が不当な扱いを受けていると聞き及んでいる。残念なことだが、人の考えというものはそう簡単には変わらないのかもしれないな」
「そんな……」
本人の意思はどうあれ、アニマを持たない鋼の十三世の躍進は術不能者達にとって希望であった。ギュスターヴは東大陸で虐げられていた彼らのための道を切り開いていたといってもいい。なのに、ギュスターヴがいなくなった途端、逆戻りしてしまうなんて——
「ギュスターヴにはそれを?」
「言っていない」
ケルヴィンは首を横に振ってから、ふっと笑った。
「言えなかったよ。あんな晴れ晴れとした顔をしていたあいつには。まるで憑き物が落ちたみたいだ」
ケルヴィンは眩しそうに目を眇めた。
「あいつのあんな顔を見たら、戻ってこいなんて言えやしない」
「ケルヴィン……」
ならばギュスターヴはこのまま、ここに。ケルヴィンに会って気持ちが変わる可能性もあったけど、彼はここに残るんだ。私は安堵していることに気がついた。そしてまたケルヴィンに申し訳なくなった。
「レスリー、君はギュスターヴのそばに頼む。ずっとそうしていたように」
ケルヴィンは微笑んだ。喉が詰まり、こみ上げそうになるものをのみこんだ。彼は多分、わかっている。私の不安も、後ろめたさも。知っていてなお、許してくれる。
「ギュスターヴには君が必要だ」
ケルヴィンが改めて口にした。
「昔みたいなことを言うのね」
テルムへ私を呼び寄せてくれた時と同じ口上に懐かしくなる。
「あのときはその言葉を疑っていたけれど……、今は少し自惚れてみることにするわ」
ケルヴィンは途端、目を丸くした。
「君も変わったな」
続けて彼が声をたてて笑いだすので、頬が熱くなる。そんなに変なことを言ったつもりはなかったのに。
「はははっ、肩の荷が降りた気分だ。全く焦れったくて仕方なかったんだぞ。そうか、あいつ、とうとう言ったのか」
「ちょっとケルヴィン、もうっ」
あははと彼はまた笑った。
きっと私の顔は真っ赤になっているのだろう。一番近くで私達を見ていたケルヴィンが、私がギュスターヴに抱く気持ちを知っていることはずっとわかっていた。指摘される度に誤魔化してきたものの、彼がずっと気を揉んでいたのも、知ってはいた。
だって仕方なかったのだ。私だってずっと隠し通すつもりだったのに、こんな形になるとは思ってもみなかった。
「少しは意趣返しにはなっただろう? ふふ、冗談はともかく、本当によかったと思っている。祝福するよ」
「……ありがとう、ケルヴィン」
気恥ずかしさは消えなかったが、友人からの祝いの言葉は胸にじわりと沁みいった。
嘘をつき、世から隠れ住むのは罪悪感を伴う。
それでも幸せに感じてもいいのだと、そう言われているような気がした。
「ギュスターヴの後は私が継いでみせるさ。あいつの後始末はいつも私の役回りだしな」
諦観の笑みを一瞬浮かべてから、ケルヴィンは頬を引き締めた。
「なに、私自身にも戦う理由がある。一応、義弟ということになるからな。……フィリップのファイアブランドのこともある」
「……そうね。でもケルヴィン、元気でいてね。私はあなたも失いたくない」
「ああ、無理はしないと約束するよ。また来る……とは言えないが、便りは出す」
「ええ。ありがとう、ケルヴィン」
顔を隠すように深々と帽子をかぶった彼を、私は見送った。
私達は友人であり、同志であり、戦友のようなもの。その関係性を続けることができることに深く感謝した。
* * *
ケルヴィンの来訪からまたしばらくした後。
昼食の準備ができた私はギュスターヴを呼ぼうと探して、家の裏にいる彼を見つけた。
海が見渡せる丘でギュスターヴは鋼の短剣を手に素振りをしていた。彼が手に持っているのはベーリング家を通してファウエンハイムの鍛冶屋から取り寄せたものだ。ギュスターヴに渡したとき、親方は良い弟子をもったんだな、と彼は感慨深く短剣を眺めていた。
フリンのナイフは居間に大切に飾ってある。ギュスターヴが時折手にとっては簡易的に手入れをしている。二揃いであったはずの片方は砦で落としたらしい。ダイクがそれを焼け跡で拾ったことを私は知っていた。
「ギュス、そろそろお昼にしましょう」
私が声をかけるとギュスターヴは剣を腰に下げた鞘におさめてから額の汗を拭った。
「そろそろ実践も経験したいもんだな」
ぽろっとこぼす彼に私は目を丸くした。
「キノコの洞窟ぐらいはいけるだろう」
「何を言っているの。冗談じゃないわよ」
ギュスターヴは私を振り返って面白そうに笑った。彼の真意を測りかねて、私の眉間に皺が寄る。
「全く。あなたはいくつになってもずっと子供のままみたい」
「そんなことないさ。昔ほどの無茶はしない」
「そう願いたいものよ」
彼のすぐ横に立つと、海を渡る船が見えた。ヤーデから出港した船だろうか。大きく帆をひろげてゆっくり進む船を私達は見つめた。
「船で世界を巡るというのも楽しそうだ。バットも元気にやってるかな。……海賊になる人生もありかもな」
また思いつきのように彼が言う。
ワイドにいた頃に、あるきっかけでギュスターヴが海賊船に乗ったことがあった。そのときに出会った同じ年頃の青年が確かバットという名前だったはず。もう一人の俺みたいだった、とギュスターヴが評していたのを思い出す。ギュスターヴは自分の血の宿命に導かれるまま東大陸に行くことを決めたけれど、もしそうしなかったとしたら、彼は自由なままでいられたのだろうか。
「隻腕の海賊? また大層な肩書ね」
私はギュスターヴの顔をちらりと見上げてから、海を向いたままの彼の身体に寄りかかった。
「でもだめよ。私を置いていってはだめ。どうしてもって言うなら私もついていくから」
わがままを口にする。子供っぽく、でも若い頃には素直にそう言えなかったようなわがままを。
触れた左側が彼の苦笑いで揺れる。
「レスリーを海賊にするわけにはいかないな」
ぐらりとギュスターヴの身体が動いて、彼の右腕が私の肩に回される。ごつごつとして硬い彼の手を私は自分の右手で包んだ。もう若くはない、歳を重ねた手。それでもまだ遅くない。もう離さないと決めた手。
「どこへだって行くのよ。あなたを愛してるのだから」
「レスリー、俺もだよ」
ギュスターヴの唇が頬に触れる。小さく耳元で囁かれる言葉にくすぐったくなる。少しずつ、彼はそういうことを言ってくるようになった。遠い昔からずっとお互い知っていたのに決して口には出さなかった感情の数々を、ゆっくり時間をかけて共有していく。
「昼食にしようか」
「そうね」
海を背にして私達は家の方へと歩いた。誰にも知られないようにひっそりと建つ小さな我が家へと。手を繋いで、帰るのだ。
FIN.
