未知

闇の王と八条の姫さんの話。
本編終了後、またふらっと遊びに来た闇の王さん。

CPにはならないけど、ちょっと特別な関係性が好き。


 

 八条郁子は机の中から教科書とノートを取り出し、丁寧に揃えてから鞄にしまった。いつもなら倫子が一緒に帰ろうと誘ってくるものだが、今日は委員会で遅くなると聞いていた。放課後には特に予定もない。洛水楼の前を通る普段のルートで帰路につこうとしたところ、何やら外が騒がしい。
 ミヤコ市は古くからの景観もあり、映画の撮影やテレビ放送のロケがあることも多い。校門前あたりに芸能人でもいるのだろうかとも思ったが、それにしては特殊な『力』を感じる。
(この気配は——)
 校門の外、ある一点から均等に距離をとるように人だかりができていた。綺麗に切り取られたような円の中心にはすらっと背が高い男が数多の好奇を帯びた視線に負けることなく厳然と立っている。
 きゃあきゃあと興奮してはしゃぐ女学生達の間をすり抜け、郁子は中心に立つ人物に近寄ると彼に微笑みかけた。
「またいらっしゃるとは思ってませんでしたわ、闇の王さん」
 ファンタジーの世界から飛び出したかのような出で立ちのシウグナスは小柄な彼女をゆっくりと見下ろす。先程までの堂々とした立ち姿とは変わって、その瞳はどこか居心地悪そうに伏せがちだ。
 女学生達も直接声をかける勇気はなかったのだろう。離れたところからシウグナスを見つめていた彼女達は、郁子が彼に話しかけたところで色めきたった。後日変な噂がたつかもしれないが、今は仕方ない。彼がこの場に長居すれば何人の学生が彼の瞳の虜になってしまうかわからない。
「御堂の兄さまならここにはおりまへんよ? もっと北の別の学校です」
「いや、そうではない」
 シウグナスの歯切れは悪い。郁子はじっと彼の様子を観察する。普通の人には見えないものも見える郁子にとっても、彼は幾分特殊な存在だ。吸血鬼なのだと綱紀からは聞いていた。彼女達の世界に伝わる吸血鬼のイメージとは異なって、こうやって昼の日差しのもとでも灰となることはないが。
「では、また何かを探しに来はったんですか?」
 前は確か空に飛んでいったというキラキラを探していたはずだ。キラキラは結界の結び目の一部が散乱したものだった。結界は安定しているはずだが、また何か邪なものが入り込んでいるのだろうかと、郁子は警戒する。
 その問いにもシウグナスは否定の意を示した。
「別に目的はない。ただ、思い出して立ち寄っただけだ」
 あら、と郁子は口に手を添えた。
「もしかして、私に会いに来てくれはったんですか?」
「……そうだ」
 シウグナスはようやくしぶしぶと肯定した。
 その姿はどこか叱られるのを恐れている子供と重なる。可愛らしい、といえば彼は顰めっ面になるだろうか。それも見てみたいと思いながらも、郁子は口もとを綻ばせた。
「ほな、私も魅力的な存在と認めていただけたんでしょうか」
 おおきに、と軽く目礼すると、シウグナスはようやく彼女の顔を真っ向から見た。じっと結ばれた視線からは特別な力は感じない。元より彼は闇の力を使うつもりはなさそうだった。
 屈しない心づもりは常に持っていたが、彼が無闇に力を使わないことに郁子は安堵した。彼が力を行使するなら郁子も見過ごす訳にはいかない。しかし、そうでないのなら——
「そんなに見つめられたら照れてしまいますわ」
 郁子がふふっと笑うと、シウグナスはいかにも意外そうな顔をする。それがまたおかしかった。
「これでも十七歳の小娘です。魅力的と思われたのなら舞い上がってしまいますわ」
 郁子の言葉は必ずしも嘘ではなかったのだが、ちょっとからかいたくなってしまうのも事実だ。
 シウグナスはまた彼女を見つめた。視線を注ぐことで心を暴き、深層に眠る記憶や感情まで引きずり出す闇の王が、いまや赤子同然のようだった。彼は彼女の真意をはかりかね、戸惑っているように見える。郁子からすれば超常的な存在のはずなのだが、微笑ましいと思ってしまうのはいけないことだろうか。
「……また来よう」
 いくらかの逡巡の後、シウグナスはふいとまた視線を外した。
「あら、もうお帰りですか?」
 闇の王はシルクハットの縁に触れて目を伏せると、微かに頷いたかのようだった。ごきげんよう、と郁子が一礼すると、シウグナスは彼女に背を向けて、地を滑るかのようにその場を離れていく。その優雅な動きは確かにこの世ならざるものを感じさせるが、郁子には畏怖の気持ちよりも親しみが残る。
 ほんの少しばかりの寂しさも。
「郁子!」
 名前を呼ばれて振り返れば、帰り支度を終えた様子の倫子が傍に駆け寄ってきた。
「あら、委員会やなかったん?」
「欠席者多くて延期になってん。それよりさっきの綱にいの友達やろ? 何しに来たん?」
 郁子は闇の王が去っていった方向に目をやった。シウグナスの姿は既に遠く、陽の光の中でもう小さい点程しかない。
「ほんま、何しに来はったんやろねぇ」
 その小さな背を見つめて、郁子は笑った。時間にしてほんの僅か。会話という会話すらしていない。それでも彼女を待っていたシウグナスは何を考えてそこにいたのだろうか。
「なんや、楽しそうやな」
「せやねぇ、なんもなかったけど、楽しかったわ」
 郁子はまた声をたてて笑った。
 きっといつかまた会えるだろう。郁子はそのささやかな楽しみを胸にしまい込み、倫子と一緒に洛水楼へ——シウグナスが向かった方角とは逆へと足を向けた。

 


First Written : 2024/08/17