イルアセ。
半妖エンディングから30年後ぐらいの話。
足音が聞こえてアセルスは耳をすませた。それはここ、ファシナトゥールの針の城で聞く音としては珍しかった。なにせ、妖魔というのは脚を使わずとも移動することができる。白薔薇はアセルスの前では歩いてくることもあったが、彼女はまだそのようなことができる状態ではなかった。それに、白薔薇にしては足音が重い気がした。
視界に入ってきた人物にアセルスは意外そうな顔をする。いや、未だに意外と思うのは失礼だろうか。彼――イルドゥンは出会った頃とは随分印象が変わっていた。いつも眉間に皺を寄せたしかめっ面はゆるみ、にこやかと言うには程遠いが、不機嫌さは影を潜めていた。
「やはりここにいたか」
「よくわかったね」
アセルスは微笑んだ。彼女がいたのは、かつてのこの城の主が使っていた部屋だ。妖魔の君、オルロワージュなき今、そこはほとんど誰も立ち入らない。アセルスもここを使うつもりはなく、最初にあてがわれた部屋を今でも自室としていた。
「最近はいつもここにいる」
「そう、だったね」
イルドゥンが言う『最近』というのはここ数日間のことではない。アセルスは決まって一年に一回、ファシナトゥールの外で暮らしている友人のジーナに会いに行く。そして、彼女に会った日はここに来たくなるのだ。
ここは、針の城の中でも最上の部屋であり、バルコニーから城だけでなく、麓の町を見渡すことができる。
「根っこの町がね、綺麗だなって」
ちょっと星空みたいだなって思うの、とアセルスは続けた。麓の町では人々の生活を感じさせる灯火が瞬く。アセルスはイルドゥンがすぐ側まで来るのを感じながら、その小さな光を眺めた。
ファシナトゥールの陰鬱な空にはもう慣れた。長い間過ごしているとここの空だって日によって違うのがわかってきた。それでも、外の世界に出たらシュライクの青空や星空が懐かしくなる。
「ここでは何もかもが変わらないかに見えるけど、やっぱり時間は流れてるんだよね」
「……そうだな」
ジーナはとても幸せそうだった。ジーナはアセルスに会うことをとても楽しみにしていたし、アセルスもそれは同じだった。
だが、別れた後にふと訪れる寂しさがある。
アセルスはちらっと会ったジーナの子供を思い出す。ジーナの息子はもうアセルスよりも背が高くなり、今年で十八になるときいた。
それだけの時が流れているのだ。アセルスが一緒に刻んだかもしれない時間が――
考えても仕方がないことなのは彼女自身もわかっていた。半妖として生きることを決めた。自分は自分。そう思いつつも、あったかもしれない道を空想してしまうのは止められない。特にそのような時間の経過をわかりやすく目の当たりにしてしまっては。
アセルスはイルドゥンを見上げた。沈む気持ちを咎められるかと思ったが、彼はただ静かに彼女を見下ろしているだけだった。その瞳の優しさにアセルスはふふっと笑う。
「イルドゥンは変わったね」
「何が言いたい」
「イルドゥンも考えることある? もし自分が人間だったなら……」
アセルスはそこで言い淀んで口を噤み、目をそらす。そして、一拍ののち小声で続けた。
「……ジーナと結ばれる道があったかもしれないって」
「……」
沈黙が落ちた。
(怒ったかな?)
アセルスは恐る恐る傍らの人物の顔を見た。イルドゥンは思いっきり眉間に皺を寄せていた。
「お前は、何を言い出すかと思ったら……」
「だって」
怒りではなく、あきれた溜め息がイルドゥンの口からこぼれる。
「確かに俺はジーナの姿に人間の美しさを感じる。その感情に名前をつけるならば、それは『愛』かもしれん。だが、お前だってジーナを愛しているだろうに」
「それは……!」
「全く」
アセルスの顔に影が落ちる。彼女が見開いた瞳に彼女とは色味の違う緑の髪がうつったかと思うと、やわらかな感触が唇に触れた。
「そういうところは人間のままなのだな」
重なった唇が離れた時、そこには顔色一つ変えていないイルドゥンがいた。対して、アセルスは頬に集まった熱を隠すように口元を手の甲で隠す。
「っ、イルドゥン……!」
「いい加減認めたらどうだ」
「何をよ……!」
イルドゥンは黙したまま片頬をあげた。その余裕がアセルスには憎らしい。
アセルスは彼の襟元を両手でつかむと、つま先をあげた。お返しとばかりにイルドゥンの青白い唇に自分の唇をぶつける。触れ合った箇所は見た目よりは温かかった。
「……」
もう一度、アセルスはイルドゥンを睨むように見上げたが、思ったより動じていない彼に口を尖らす。もう少し何かしらの反応をしてくれてもいいだろうに。後どれくらい時を重ねたら彼より優位に立てるというのだろう。
「っ、そばにいてよね!」
「元よりそうしているだろう」
でも彼が彼女の傍らで同じ時間の流れの中に身を置き、そうして笑ってくれるようになったのだから、この陰鬱な世界も悪くないのかもしれない。
アセルスは、ふっと息を漏らして笑った。
First Written : 2021/10/19