少し、だけど

体調不良気味のレスリーとそれを見たギュスターヴ。

 


「、リー。……レスリー?」
 ハッとしてレスリーは顔をあげた。彼女の名前を呼んだケルヴィンはうっすらと眉を寄せてこちらを見つめていた。
「ごめんなさい、なんだったかしら?」
 レスリーは胸の前で抱えていた書類が乱れているのに気づき、整えて持ち直す。執務机に向かって座っていたケルヴィンは立ち上がった。眉間の皺は残ったままだ。それは不機嫌ではなく、心配によるもの。
「レスリー、今日はもういいから休め」
「大丈夫よ。少し考え事をしていただけ」
 レスリーはそう返したものの、ケルヴィンは彼女の手から書類を優しく取り上げる。彼の机にはまだこなすべき仕事が溜まっている。少しでも手伝えれば彼の負担を減らせると思ったものだが——
「調子が悪いのだろう。顔色も良くない」
「気のせいよ、これくらいなんともないんだから」
「レスリー」
 穏やかな物腰のケルヴィンから一際強く名を呼ばれ、レスリーは押し黙った。
「休んでくれ。……でないと、あいつが大騒ぎする」
 ケルヴィンは静かに、そして苦笑混じりに続けた。彼が意図することに気づき、レスリーもふっと肩に入っていた力を抜いた。意地になってしまった自分を恥じる。
「……そうね。ごめんなさい、そうするわ」
 まだ昼を過ぎたばかりの時間。レスリーはケルヴィンの執務室を後にした。
 
 
 不調の気配はあった。それでも普段より身体が少し重たいだけで問題はないと考えていたのに、仕事中に朦朧とするとは不覚だった。自覚している以上に疲れているのかもしれない。
 そのまま自室にそっと下がろうとしていたのに、間が悪いとはこういうことを言う。角を曲がったところでレスリーはギュスターヴに出くわしてしまった。避ける間もなく(実際避ける程の理由もないのだが)ギュスターヴは彼女にすぐ気づいた。
「レスリー!」
 駆け寄るような足音に、彼女は苦笑する。この歳になっても城内を走るような男はこの国の主しかいないだろう。以前、その物音に来客がひどく怯えていたのを思い出す。
「ん? なんだか顔色が悪いぞ?」
 まだ数歩の距離があるというのに、ギュスターヴの目ざとさにレスリーは内心嘆息する。部屋に戻るまでは普段通りに見えるよう気を張りつめていたはずなのに、これでは型なしだ。
「ちょっと疲れているだけよ」
 レスリーは彼の顔が曇る前にと先回りするつもりでそう発してから自分の失言に気づく。これでは逆効果だ。その証拠にギュスターヴの顔は険しさを増していく。
 
 ——少し体調を崩しているだけ。大したことはないから心配いらないわ。
 
 そう言って床に臥せったのはギュスターヴの母だった。「少し」の体調不良はずっと続き、ソフィーの病は治らないままだった。
 そして快復しないまま彼女のアニマは還った。
 大きな手のひらがレスリーの額を覆う。
「熱は……ないな?」
「ええ」
 触れただけでは確証が持てなかったのかやや自信がない様子でギュスターヴが確認する。
 ギュスターヴの手は温かかった。寒気は感じないのでおそらく今の時点で熱はないはずだ。ただ喉に違和感があるので早めに休息をとるべきだとは感じる。
「今日は休みをもらったの。心配しないでも今から部屋に戻るところよ」
「送っていく」
 そんな大袈裟なと断ったところでギュスターヴは譲らないだろう。黙することで承諾すると、彼が横に並び立つ。
「辛いか?」
「一人で歩けるわよ」
 ふらついているわけではないので、手をかそうとする彼の申し出は断っておく。腕を絡ませて歩くなど——ましてやそれを誰かに見られるなどすれば、別の意味で体温が上がってしまいそうだ。
 行き場をなくしたギュスターヴの手はしばらく宙をさまよった末、おずおずと引っ込められる。歩調はレスリーにあわせてゆっくりとしたものになる。それがなんだかおかしくて、でも笑ってしまったらギュスターヴに悪くて、レスリーは顔を少し伏せて歩いた。加減がひどいのかとさらに不安にさせるかもしれない。それでもこうやってすぐ傍で歩いてくれる時間が惜しいと思う自分も確かにいるのだ。
 ギュスターヴが先へと突き進む度に心に揺れる寂しさのようなものが部屋へ向かう一歩一歩で少し和らぐ気がしてくる。目の前から居なくなったというわけでもないのに、こんな風に気弱になるのもきっと体調が悪いせいなのだ。
 
 
 
 自室についてもギュスターヴは離れようとしなかった。部屋の中までついてくる彼にレスリーは冗談めかして顔を顰めてみせる。
「ギュス、私寝支度をするのよ。着替えるまでいるつもり?」
「っ! わかったよ」
 一瞬たじろいだギュスターヴは、しかしそれでも疑り深く彼女の顔を見つめている。
「本当に寝るんだな?」
「ええ」
 レスリーが頷けば、彼は渋々と扉に向かった。
「レスリー」
「もう、心配しすぎよ」
 あと一歩というところで振り返る彼の背中をせっつくように押してやる。これではまたすぐにでも様子を見にきそうだ。気にかけてもらえるのは素直に嬉しいが、寝顔を見られるのはあまり歓迎しない。
「しっかり休むから」
「約束だぞ」
「約束する」
 ギュスターヴの背中を見送ると、レスリーは扉を閉じてからふうと息を吐いた。自覚してみると疲れが増したような気がする。着替えてからベッドに身体を横たえると身体が深く沈み込むようだった。
 ギュスターヴがこういう時にひどく繊細になる気持ちはわかる。ソフィーの喪失は彼の中で決して埋められない大きな穴なのだ。
(ソフィー様……)
 優しくも凛とした笑顔をレスリーは思い浮かべた。
(私は約束を守れているでしょうか)
 ギュスターヴのことよろしくね、と病床のソフィーはレスリーの手を握った。その温もりはレスリーの中にも残っている。
 ギュスターヴの為にも明日にはすっきり治さなければと考えながらレスリーは瞳を閉じた。眠気の波はすぐに彼女をさらっていく。
 安堵に満ちた彼の笑顔を夢見てレスリーは眠りに落ちた。

 


First Written : 2024/07/31