オズバルドのエンディング後の話。
オズバルドとエレナとグラーシュ。
「お帰りなさい……パパ」
陽の光が傾き街に影を落とす頃。レディ・クラリッサの家を訪れたオズバルドを待つのはどこか緊張した面持ちのエレナだった。
オズバルドは反射的にあげかけた右腕をまたゆっくりとおろした。過去に覚えていた角度よりもさらに高い位置にエレナの頭はあるのだから、エレナの背後で彼を出迎えたかつての助手もその動作の意味に気づいたかどうかはわからない。
「ただいま」
胸にひろがる温かさとちくりと刺さる痛みを表す言葉を、オズバルドは知らない。
幸いにもエレナは過去の記憶を取り戻した。オズバルドはその知らせに深く胸を撫で下ろしたものだが、だからといって全てが元通りになるというものでは無い。リタの不在はもちろんのこと、父子の間には長い年月の隔たりがあった。クラリッサが気を回し、少しずつその穴を埋めていく為にオズバルドは度々彼女の家に招かれることとなった。
オズバルドが家の中に足を踏み入れた途端、ある香りが彼の鼻腔をくすぐった。懐かしい、そして不可解に彼の瞳をうるませるようとする香り。
見なくてもわかった。
グラーシュだ。
赤い煉瓦色の器に注がれたそれを眺めるオズバルドをエレナがそっとうかがいみる。緊張からか、彼女の頬は赤味を帯び、両の手はぎゅっと握り合わされている。
「オズバルド様。ほら、お座りになって」
言葉もなく立ち尽くしたままのオズバルドをクラリッサが席に促す。卓についたオズバルドの斜向かいにクラリッサが座り、その隣におずおずとエレナが腰をおろした。エレナの視線はちらりと父に向けられてはまたすぐに逸らされることを繰り返している。
「……いただきます」
深く息を吐いた後、オズバルドは器の横に添えられたスプーンを手に持った。やわらかな湯気がたつグラーシュを少し掬うとゆっくりと口に含んだ。
彼の舌の上で甘味と酸味が絶妙なバランスで混じり合う。口内にひろがる味にオズバルドは目を見開いた。思わずエレナを見上げると、彼女は泣きそうな瞳で彼を見つめ返している。
「今日の夕飯はエレナちゃんが作ったのですよ」
クラリッサが横から口添えた。
グラーシュを作りたい。エレナが自らそう言った時、クラリッサは彼女を抱きしめたい気持ちでいっぱいになった。父との距離に戸惑うエレナが、彼女なりの方法でオズバルドに近づこうとするのを全力で応援すべく強く頷いた。
グラーシュにはそれぞれの家庭の味がある。リタがレシピを書き留めていたかどうかはわからない。あったとしてもそれはとうに焼けて無くなっていたことだろう。
記憶の中の食材をクラリッサは用意し、基本的な作り方を教えた。それでも最初の試作でエレナは首を横に振り、違う、と呟いた。そこから彼女達の秘密の研究は始まった。エレナは母の手伝いをしながら見聞きしたことを思い出せる限り試し、幾度となく試作は繰り返された。
オズバルドは己の体の奥底から湧き出た気持ちを口にする言葉をもたない。熱を帯びたそれはかつて虹色の光を纏わせたあの時と似ている。
「リタのグラーシュだ」
上擦った声をオズバルドは漏らし、いや、と小さく首を横に振った。
「限りなく似ているが、足りない。リタが作るグラーシュを構成する要素が一つ不足している」
エレナの顔がさっと曇った。オズバルドはそれでも彼女と視線を結んだまま、続けた。
「とても重要な要素だ。解は、エレナの中にある」
言葉とは裏腹に優しく包み込むような声音だった。エレナはハッとして伏せかけた顔をあげる。彼女は席を立つと小走りでキッチンに向かい、そこから小さな器を抱えて戻ってきた。
「あぁ」
オズバルドは短く息をつき、頬を綻ばせた。
「エレナは未来の大学者だ」
緩んだ彼の瞳が濡れる。
エレナも涙を浮かべながら、持ってきたものをオズバルドの器に並べた。
気恥ずかしくて添えていいのかわからないまま、それでもと密かに用意していたもの。
ハートの形にくり抜かれた人参を、オズバルドは大切そうに掬って口に運んだ。
First Written : 2023/04/22