1262年頃。チャールズ・フィリップ兄弟とギュスターヴ、レスリー、ケルヴィンの話。
やわらかな日差しと、風が気持ちいい日だった。
「フィリップ様をお見かけしませんでしたか?」
心配するヴァンに声をかけられたのはほんの少し前。庭園の片隅で白金の髪の少年にレスリーは気づいた。五歳になったばかりのフィリップ三世は芝生に座り込んで膝を抱えていた。その肩が小さく震えている。
「フィリップ様」
驚かせないように、レスリーはそっと優しく名前を呼んだ。フィリップはゴシゴシと目元を拭く動作を見せると、顔をあげた。
「レスリー……」
「お隣、いいですか?」
こくんと彼が頷くのを見て、レスリーはスカートを引き寄せて、少年の横に座った。芝がそよそよと足元をくすぐる。
「ヴァンが探していましたよ」
「……ん」
フィリップは噛み締めた唇の間から返事をした。泣くまいと、膝の上に置いた両の拳は力を込めすぎて白くなっていたが、懸命に耐えていたのも虚しく瞳からまた涙が一筋こぼれ落ちる。
レスリーはそっとハンカチをフィリップに手渡した。フィリップはそれを受け取って、隠すように顔を埋める。しばしそうしてから、鼻をぐすりと鳴らすと、彼女を見上げた。
「レスリー」
「なんでしょう?」
「兄上は、私のことが嫌いなのでしょうか?」
温かな眼差しに見守られながら、フィリップはぽつりぽつりと先程の出来事を話し始める。
「兄上、あれはなんでしょうか?」
「私にも見せてください、兄上!」
ヴァンと三人でハン・ノヴァの宮殿とその周りの庭園を探索しながら、フィリップは兄、チャールズの裾を引っ張った。ヴァンは和やかに笑っていたが、今思えば、兄はそういう自分に少し嫌そうな顔をしていなかったか。
ひらけたホールに差し掛かった時、扉から彼の父ケルヴィンが出てきた。フィリップは思いがけず出会えた父と今までの探検の話をしたくて、名前を呼んで駆け寄ろうとしたが、そこをチャールズに止められた。
「やめないか! 父上は忙しいんだ!」
「でも……少しお話するだけでも!」
食い下がるフィリップにチャールズの瞳はかっと燃えたように見えた。
「いつまでそうやって甘えるつもりだ! 母上もいないんだ、お前もいい加減しゃきっとしろ!」
高い天井に鳴り響いた怒声に文官と話していたケルヴィンもこちらに気づいて目を丸くしていた。チャールズは顔を赤く染めてきゅっと唇を噛み締めると、静止する声も聞かず、その場を走り去った。フィリップも懸命にその後を追おうとしたのだが……
「そう。そんなことが……」
兄に追いつくことができず、フィリップは途方にくれていた。影を見失ったところでじっと座りこみ、言われた言葉を反芻していると、恥ずかしさと悲しさで涙がこぼれた。
「私は、母上を知らない。それは母上が私を産んだことでアニマが還ったからだということを、私は知っています。兄上は、私が生まれたことで母上を失ったのですよね」
「フィリップ様……」
「私のせいで、兄上は……。私が」
「それ以上言ってはいけませんよ」
レスリーはフィリップの唇に自分の人差し指をそっと押し当てた。やわらかな感触に驚く彼に、少し困ったように笑う。
「マリー様が悲しみますわ。それに……。ふふ、ギュスターヴ陛下も同じようなことを口にしたことがありましたね」
「伯父上が?」
「ええ」
いつも堂々としているように思えた伯父がそんな弱音を吐いたことがあるとは。フィリップは意外に思った。彼の中でギュスターヴは怖いもの知らずの勇ましい英雄その人だった。
レスリーは少し遠くを見つめた。その瞳が何故かもの悲しそうで、フィリップは彼女の手に自分の小さな手を重ねた。驚いたようにレスリーは彼を振り返ったが、心配そうな瞳を見つけると今度はふんわりと微笑み、そっとその手を握り返す。
「チャールズ様も、弟ができることをそれは楽しみにしていたのですよ」
「そうなのですか?」
「ええ。フィリップ様が生まれた後もよく覗きにきて。早く大きくならないかなぁ、そしたら一緒に遊べるのにと」
「そう……ですか」
噛み締めるようにフィリップは呟いた。涙が消え、ほんのりと漏れ出る笑顔にレスリーはほっとする。
「フィリップ様はチャールズ様のことが大好きなんですね」
「はい!」
レスリーはキラキラとした眼差しに微笑んだ。そして、数年後の未来を考えて心の中でひっそりと憂いた。ギュスターヴが彼の名前に込めた想い、そしてフィリップが七歳になった時――。どうか、立場の違いが兄弟の絆に悪い影響を与えませんように。今はただ、幼い子供達に気づかれずに願うことしかできない。この小さな手をまだ護ってあげなければならない。
フィリップはおずおずとレスリーを見上げる。
「レスリー、お願いを聞いていただけますか?」
「なんでしょう?」
「あの……母上のお話を聞かせていただきたいのです」
恥ずかしそうに耳元で囁かれた可愛らしいお願いに、レスリーはこたえてあげるのだった。