ギュスレス。テルムで身分違いを痛感するレスリー。
テルムは大きな街だった。高台に位置する城から外を見下ろしても、視界よりもずっと先まで街が続いている。王城を中心に幾重にも渦を巻くように家々が並ぶ。内側に近いほど階級が高く裕福で、貧民は最も外側に追いやられ身を寄せ合うようにして暮らしている。
グリューゲルにある生家の窓から見た景色とはあまりにも違う。いつの日かこの街を出てどこか別の場所に住むことになるかもしれない、という少女の頃の夢想よりも遥かに遠い場所にレスリーはいた。
歯車が動き出したのはヤーデで再会した時からか。それともグリューゲルで初めて彼に面と向かって意見した時からか。いずれにしろ、彼女の時間は彼と共に刻まれてきた。そして、これからもきっとそうなのだと思っていた。
グリューゲルからヤーデへ。ヤーデからワイドへ。
ワイドからテルムへもそう変わらない。どこかでそうではないとわかっていたのに、そう自分に言い聞かせていた。
東大陸を統べるフィニー王国。その玉座におさまるつもりは無いと本人は言っていたものの、周りの人間はそうは見ない。実際、正当な後継者がいないフィニーの政は現在ギュスターヴの手の内にある。術不能者として蔑まれていたとしても、おいそれと無視できない存在であることは確かなのだ。
レスリーは自分の手のひらを見た。
少し前まで彼は手を伸ばせばすぐ触れられる距離にいた。同じ食卓を囲み、肩を並べて同じ本を読んだことも、思いがけず抱き寄せられたことだってある。
そんな彼がどこか遠くにいってしまったように感じる。いや、寧ろ今までが近すぎたのだ。本来なら出会うこともないはずの、雲の上の存在。東大陸に来ることによって、それまで見えていなかった彼との間の隔たりが浮き彫りになっただけ。
こんなところまで来て何をしているんだろう。何ができるというのだろう。その先には何も約束されていないどころか、望むべくもないのに。覚悟を決めたはずが、目前に突きつけられた現実に打ちのめされ、いとも簡単に揺らいでしまう自分の弱さに嫌気がさす。
あるいは、ワイドに残るべきだったのかもしれない。今ここで、手を離すべきなのかもしれない。彼の目の前には彼女が想像することも叶わない、広大な世界がひろがっているのだから。
誰かが廊下を走るような足音が聞こえてレスリーはハッとして目線をあげた。
「レスリー!」
心無しか少し息を切らしたギュスターヴが彼女を見つけて駆けてくる。
あぁ、とレスリーは思う。この顔に自分は弱いのだ。嬉しそうに笑う彼を見たら、何もかもが些末なことに思えてしまう。
彼の笑顔を護れるなら。ずっと近くで、手を伸ばせばすぐ届く距離で——
「どうした?」
服の裾を掴まれたギュスターヴが、訝しげに問う。ぎゅっと力を込めた指先をレスリーはそっと開いた。
「ごみが、ついていたから。きちんとしなさいよ。あなたはもう、」
彼女は精一杯の嘘をつく。一国の主たる彼の身だしなみを整えてくれる人ならもう周りに沢山いるのだ。ヤーデで世話を焼かされた少年はもうここにはいない。
ゆっくりと離れたレスリーの指先を、ギュスターヴの手が追いかけるように包み込んだ。
「ギュス?」
優しく、それでいて確かな力で握られ、彼女は戸惑う。自分の行為に彼自身も驚いたようだった。ギュスターヴは曖昧に笑い、言葉を探して続ける。
「その、なんだ。ここのところ顔を合わせてなかっただろう?」
どうにも調子が狂うんだ、と彼が呟いた言葉が静かにレスリーの耳をうつ。
「今ちょうど時間があるんだ。どこかで話さないか?」
レスリーはギュスターヴの瞳を見た。そこには彼女に乞い願うような眼差しがあった。
——君はどうするんだ、レスリー。ついてくるのかい?
あの時、彼がそう望んだから。はっきりと言葉にしなくても、目を見たらわかったから。
どうしようかな、と誤魔化した言葉とは裏腹に、あの瞬間彼女の心は決まっていたのだ。
(——馬鹿ね)
レスリーは不安に揺れた心を自嘲した。
答えはもう出ていたはずなのに。離せるものならとっくに手離していた。
彼が望む限りは、そばにいるのだと。それがつまりは、自分の願いでもあるのだと。
「ええ。いいわよ」
レスリーは笑って、気づかれない程度にそっと指先に力を込めた。今だけはその極上の笑みを独り占めできる幸せを感じながら。