故郷の音色に誘われて

テルム帰還後のギュスレス話。

 


 

 歴代の王族を描いた肖像画が飾られた廻廊を歩く。石を敷きつめた床の上には色鮮やかな絨毯が覆っている。そのやわらかい布地が全ての音を飲み込むのか、廻廊に面した扉の向こう側には決して少なくない数の人がいるはずなのに、あたり一体はとても静かだった。
 窓辺に近づいて、締め切られていた窓を押し開く。中と外の空気が入れ替わり、自分の中で知らず詰めていた息を吐き出した。
 テルムの中心にそびえ立つここは、数多の戦を制した覇者の堅牢な城。荘厳なる王族の住まいに足を踏み入れた時に感じた気後れは今では幾分薄れたものの、さすがにのびのびと過ごすまでには至らない。
 知らない土地に赴くことは苦痛ではなかった。誰がそこにいるかが大事で、場所がどこであるかはさほど問題ではない——随分前からそう考えていたのだから。
 それでもやはり気疲れはあったのだろう。肩が重くなっていたように思う。
 頬に触れる風はまだ少し冷たい。さらさらと髪を揺らしていくのが心地良かった。目を閉じて息を大きく吸うと、微かな音が耳に届いた。
 城門の少し先だろうか。街の音が風にのって運ばれているようだった。人が集まり演奏をしているのか、それともどこかの旅の一座が訪れているのか。内乱が集結し、街も少しずつ落ち着きを取り戻しているのかもしれない。
 奏でられている音を手繰り寄せるために、窓枠に身体を預けて前のめりになる。耳をすませば、高く響く縦笛の音色が聴き取れた。徐々に頭の中でメロディーが辿れるようになる。
 あぁ、この曲は。
 かつて母の膝の上で微睡みながら聞き、幼少の頃に友と口ずさんだ歌だった。かすかに聞き取れる旋律が、故郷グリューゲルの光景をよみがえらせていく。そよそよと揺れる樹々。静かに流れゆく川と、落ちた葉がその水面につくる波紋。歩けばコツコツとなる足元の石畳。広場で売られていた果物の甘い香り。路地のあちらこちらで交わされる快活な会話。
「何をしているんだ?」
 優しく響く音だった。寄り添うように耳に触れてくる声に、夢見心地のまま振り向いてしまった。ぼんやりと開いた目にうつった人影に我に返る。彼は小さく息を漏らすように笑ったみたいだった。たちまち、恥ずかしくなる。つま先立ちで窓枠から身を乗り出しているなんて、まるで子供みたい。
 ギュスターヴは気に止めていないのか、すぐ隣に立つと同じように外に顔を出してあたりを眺める。それでもよくわからなかったのか、首をひねった。
「目を閉じて、耳をすませてみて」
 彼は目を伏せる。素直に助言を聞き入れてくれる。そういうところが彼にはある。
 音を拾えたのか、ギュスターヴは片眉をあげて、それからふっと口元をゆるめた。
「懐かしいな」
 穏やかに微笑む彼が意外だった。旋律を覚えていたこともだけれど、幼少の頃を過ごした場所とはいえ、グリューゲルに良い思い出なんて無いと思っていたから。
「そんなに変な顔をすることないだろ」
 ギュスターヴが今度ははっきりと声をあげて笑った。
「確かに色々あったが、悪いことばかりじゃなかった。それに、グリューゲルは君と……」
 そこで彼の声は途切れる。縦笛の旋律が聴こえなくなっていた。かわりにシャラランと鈴を鳴らしたような音と、軽快なフィドルの音が響き始める。それも故郷で馴染みの舞踊曲だった。
 ギュスターヴは、後ろに跳ねるようにして窓枠から離れると、私に向かって手のひらを向ける。
「じゃあ、行こうか」
「行くって、どこへ?」
「もちろん、音の聞こえる方へ」
 そのような気はしていたけれど、予想と違わない答えに苦笑いする。東大陸に渡って立場を変えようとも、そのあたりの自由奔放な行動は改めるつもりがないようだ。
「あなたが出かけたら大騒ぎになるわ」
「顔を隠せばわからないさ」
「怒られるわよ?」
「裏道があるんだ。こっそり行って帰ってきたら大丈夫だろ」
 ヤーデやワイドとは状況が違う。ここで彼に万が一があればと思うと、安易に頷くわけにはいかなかった。とはいえ、危険があることを指摘したところで彼が踏みとどまるとも思えない。もし命を失うとしたらその時は自分がそこまでの者だったということだ、とでも笑うのだろう。どうせ……と。そんな言葉を彼の口から言わせたくはなかった。
 どうしたものかと悩んでいると、ギュスターヴが一歩近づいた。躊躇している私の手をとる。
「行こう、レスリー。『俺が』近くで聴きたいんだ」
 真っ直ぐ見つめてくる瞳は有無を言わせない力強さがある。その奥に光る、子供のような人懐っこさを覗かせながら。
 立場を弁えるならば、その手を振り払うべきだ。頭ではわかっていても、『そういうこと』にしてくれているんだ、と思うと拒むことはできなかった。罪悪感はすぐに別の何かと紛れて曖昧になってしまう。結局のところ、彼にはかなわないのだ。
 触れたところからひろがっていくあたたかさに絆される己を叱咤しながらも、私はその手を握り返した。

 


First Written : 2022/07/31