ヴァンアーブルとミーティアの始まりの物語。
ヴァンアーブルは、ドアのノック音で顔を上げた。
城仕えから離れ、テルムに居を構えてからも、時々彼を訪ねて人が来る。大概は地元テルムの民が術に関する困り事の相談にくるのだが、亡き師のつてで遠方から訪ねてくる人もいる。
走らせていたペンを置き、腰を上げようとして、鮮やかな赤色が彼の目の前を横切っていく。止める間もなく、赤い頭巾から金の髪を靡かせた女性がドアに近づき、取っ手に手をかけて開いた。
「こんにちは!」
「こんにちは……?」
快活とした彼女の声に、訪問者が自信を失って語尾を濁して返す。背の高い彼女の横から中を窺うように、客の男が首を出した。奥にいるヴァンを見つけて、安堵した顔を見せる。どうやら今日の来客はテルムの住民の方のようだった。確か、ツールが調子悪いので見て欲しいと、先日預けていったはずだ。
ヴァンはツール作りについては専門外であるものの、師のシルマールから教わった範囲内で対応できる内容だったので請け負ったのだ。ヴァンは客に目線で頷き、奥の部屋にあるツールを取りに行く為に今度こそ腰をあげる。
待っている間に男はちらりと戸口に立つ女性——名前をミーティアといった——とヴァンアーブルを交互に見た。視線を気にすることも無く、ミーティアはにこにこと微笑んでいる。
「はい、こちらがお預かりしていたものです。ここの部分が外れかかっていて、うまくアニマが伝わらなかったみたいですね」
ヴァンが、包んであった布を開いてツールを指さしながら説明すると、客は頭を下げて両手でそれを受け取る。
「ありがとうございます。助かりました。……彼女は、お弟子さんですか?」
「いや、この子は……」
「はい、そうです!」
ヴァンが訂正する前に、ミーティアが元気よく肯定してしまう。客はほう、と感嘆したように彼女をまじまじと見つめる。
「そうなんですかぁ。ヴァンアーブル師がとうとう」
客は微笑ましそうに笑うと、代金を渡した後、そのまま立ち去っていってしまった。
パタンとドアを閉めた後、ヴァンアーブルはため息をついた。あの様子ではテルム中に話が伝わってしまう。そして噂には尾ひれがつくものだ。
旅の道中に魔物に襲われているミーティアを助けた。ただそれだけのはずだった。まさかその彼女がテルムまで彼を探しにきて、弟子にして欲しいと押しかけてくるとは思ってもみなかった。
ヴァンはその申し出を断った。彼女の訪問が夜遅く、宿屋が既に満室だったので、仕方なく自宅に泊めはしたが、首を縦にふったつもりはない。朝になっても彼女が出ていく気配はなく、かといって追い出す気力もなかった為、なんとなくそのまま居座ってしまっている。
——横で見てるだけでもいいんです。恩返しの為に何かのお役にたちたいのです。
ミーティアがあまりにも必死で、悲しそうな顔をするので、ヴァンも強くは言えなかった。それが良くなかったか。
「すみません、ご迷惑でしたよね」
ヴァンの表情が曇っていることに気づいたのか、ミーティアが頭を下げた。
「私、さっきの人に本当は違うって言ってきます」
今にも外へ駆け出していきそうな彼女を制して、ヴァンは首を横に振った。
「それはもう良いでしょう。ですが、今後はそういうことはやめていただけませんか?」
分かりやすく項垂れる彼女を目の端に感じながら、ヴァンは書き物の続きをする為に文机に戻った。
「じゃあ私、何か昼食を作りますね!」
気を取り直したミーティアが台所に向かう。集中すると飲食を忘れがちな彼にとって、彼女が食事を用意してくれることは正直有難くはあった。勿論、最初はそれも断ったのだ。女中を雇った覚えも、これから雇うつもりも無いのだと。それでも命の恩人に対してせめて何かはさせて欲しいと食い下がる彼女に根負けした。そのうちに気が済んで帰るだろう、と静観していたのだが——
「ああっ……?!」
台所の方から悲鳴がきこえて、ヴァンは頭を抱える。彼女が来てから何かと騒がしい。一人暮らしとは違うので当たり前と言えばそうなのだが、それだけが理由でも無さそうだ。今度は何が起きたというのか。やれやれと、立ち上がって声のした方へ向かった。
「どうしたのですか、ミーティアさん」
「ヴァンせんせぇ〜」
叱られた子供のように情けない声を出す彼女の手元を見て、ヴァンは瞬時に理解した。彼女が握った石包丁がキャベツだけでなく、下のまな板まで貫通してしまっている。力に耐えきれなかったまな板が真っ二つに割れていた。
石包丁をただふるっても叩きつけるだけで、食材を刻むためには石のアニマを込めて『切る』イメージを描かなくてはならない。しばらくミーティアを見ていてわかったことだが、彼女はそのアニマを操る力がどうにも未熟なのだ。アニマが弱いわけではない。ただ、力の制御が上手くいかない。ヴィジランツとして生きていてよくそれでやっていけたと思うところだが、彼女は何かと運が強いらしい。
「怪我はありませんか?」
「大丈夫です。ごめんなさい、まな板が」
「それはもういいです。ほら、もう一度手にとってご覧なさい」
え、と不思議な顔をする彼女を促して石包丁を握らせる。
「アニマの使い方を教えてあげましょう」
ぱぁっと明るくなる彼女の顔を見ないようにして、ヴァンは静かに意識を石のアニマに向けた。
別に弟子にすると言った訳では無い。あまりにもアニマの扱いが下手なので少し助言をしただけだ。
ヴァンアーブルは、頭の中で繰り返した。
邪魔をしないのであれば、書庫の本を自由に読んでいい。アニマや術について参考になることもあるだろう。そう言った時のミーティアの笑顔が脳裏をちらつく。
ひたむきに頑張るところは評価に値するのだろう。夕食を食べてからもずっと書庫にこもりっきりだった彼女は、本をひろげたまま机に突っ伏すようにして眠っている。その肩にブランケットをかけてやりながら、開いたままの本を閉じた。
『随分可愛らしい弟子じゃないか。なぁ、ヴァン』
頭の中で懐かしい声がする。目を閉じるとその姿まで鮮明に浮かぶ。威風堂々とした佇まい。長い髪を鬱陶しそうにかきあげる仕草。口ではからかいながらもその眼差しが優しいのを知っている。
『別に弟子ではありません』
彼を前にするとヴァンは十代の姿に戻る。頬を少し膨らませ、不満気に返す。
『お前はいつまでも見習い気分が抜けないんだな。そんなのでどうするんだ』
『……っそんなの!』
十代のヴァンは噛み付くように叫ぶ。みるみるうちにその瞳に涙が溢れていき、止まらなくなるのだ。
『貴方が、僕を、置いてけぼりにするからですよっ……!』
彼の横で一人前になりたかった。これでシルマール先生にも安心して報告できる、と誇らしく言ってもらいたかった。
わかってる。それは自分の頭の中で繰り広げられる会話。かつて彼が仕えたギュスターヴも、彼に影のように付き従っていた友人も、どれだけ色鮮やかに瞼の裏に甦ろうとも、それは過去のこと。彼らはもう何処にもいないのだ。尊敬していた師も、立場や地位をこえて親しくなった歳下の友人も、もうみんな亡くなってしまった。
(私は、弟子をとれるような、そんな立派な人間じゃない。幾ら歳を重ねたところで、シルマール師にはとても及ばない)
その証に、心の中でこうやってみっともなく泣いてしまうのだ。
そんな彼の頭を大きく温かい手が撫でる。彼が苦笑いを浮かべているのを感じる。
わかっている。この人のせいではない。いつまでもあの時代に囚われているのは自分のせいなのだ。彼らが居なくなってしまった事実を未だに受け入れられない、己の弱さ。
前に、進まねば。
足を、踏み出さなければ。
いつか胸を張って、また出逢うために。
「私の指導は厳しいですよ。それでも良いのですか、ミーティア?」
彼女の瞳が歓喜に揺れるのを、ヴァンアーブルは確かにその目で見た。
カチリ、と何処かで時計の針が動いた音がした。
First Written : 2022/07/18