ギュス様不在のギュスレス。
テルムへと向かう船の上でのレスリーとムートンの会話。
ワイドの港を出た船はその帆に風を集めてゆったりと北へ進んでいく。幸いにも天候はよく、海は穏やかだ。甲板に出ても問題ないと言われ、レスリーは船縁から海を見下ろしていた。
ギュスターヴはどんな気持ちでこの海を渡ったのだろう。レスリーは先に向かった彼に思いを馳せた。南大陸へと逃れたときに通った道を、大軍勢を引き連れて戻っていくときの彼の心模様は計り知れない。
ワイドの領主で一生を終えるという選択を捨て、愛憎混じる故郷へと舳先を向けた彼は、生来の立場を奪還してそれで満足するのだろうか。
ワイドを発つときには透き通って見えた水の流れも、いつしか暗く深い碧に変わっていた。水底が遥か下にあるため光が届かないのだときいていた。泳ぎの堪能な者でもこの昏き海に投げ出されてしまえば、なすすべもなく命を落とすことだろう。
レスリーはその恐ろしさに身震いをした。頬を撫でる風は優しく、新たな旅の予感に胸は高鳴ったが、果たしてこのまま進むべきなのかと迷いが生じる。きらきらと煌めく水面に目をとらわれて油断をすれば、途端に海底へと引きずり込まれるような。彼女が——彼が目指す先はそのようなものではないのかと考えてしまう。
「レスリー殿。ここにおられましたか」
ふと声をかけられてレスリーはその声の主を振り返った。
「ムートン卿」
船室から出てきたムートンが普段通りの柔和な面持ちで彼女の横へと並びたった。
「レスリーさんは船旅は初めてでしたか?」
「河渡りはありますが、海はそうですね」
「そんな貴重な日を共有する相手が私で申し訳ない」
「そんなことありません。ムートン卿とご一緒できて心強いです」
レスリーがふふっと笑うとムートンも眉を下げて微笑んだ。
ギュスターヴとギュスターヴの戦いは十三世の勝利で終わった。フィニーを掌握した十三世は、ワイドにて留守を預かっていたムートンをテルムに呼び寄せた。レスリーもそんなムートンに同行して海を渡っている。正確に言えば、レスリーはギュスターヴにではなく、ケルヴィンに侍女として請われてテルムに向かっていた。
「浮かないご様子ですね。気分が悪いのなら船室で休まれては? まだ旅は長いですよ」
レスリーの顔色を察したムートンの提案に、彼女は首を横に振った。
「体調は、大丈夫です。少し怖じ気づいたというのでしょうか……。正直、私なんかが行っていいものなのか」
ケルヴィンから届いた手紙には『ギュスターヴには君が必要だ』と書かれていた。しかしレスリーにはその確信がもてない。ギュスターヴ達はレスリーには想像もつかない世界へと向かっている。彼女がついていくことに意味はあるのだろうか。却って足枷にならないだろうか。
そしてその考えは同時に、自惚れもよいところだと恥じて身悶える。いっそ『ケルヴィン』が彼女を必要としていると言ってくれた方が腹も決まりやすかったのに、と彼女は内心ごちた。
ムートンは娘と言ってもよい年頃のレスリーの姿に笑みを深くした。
「レスリーさんにはレスリーさんにしかできないことがあるのだと思いますよ。この五年程傍で見ていた私はそう感じます」
「そう、でしょうか」
「そうですよ」
レスリーが自信なく首をひねったが、ムートンは表情を崩さなかった。
「結論はすぐに出さずともよいでしょう。あなたたちはまだ若い。これから自分の目で見、耳で聞き、肌で感じる。それからでも遅くはない。レスリーさんならきっと自分の道を自分で選ぶことができましょう」
「過分な言葉です。でも、そうですね……」
ムートンの言葉に気恥ずかしくなりながらも、レスリーは落ちていた肩をあげて、すっと背を伸ばした。
「目をそらすことだけはしたくないですから」
「それで良いと思いますよ」
見つめ返してくるムートンの瞳に宿る優しさに触れて、レスリーははにかみながら頷いた。
First Written : 2025/03/23