あれから幾度の夜をむかえただろう。
炎に焼かれる夢を見なくなるのは、いつの日か。
グリューゲルに帰郷した私のもとに一通の手紙が届いた。差出人はシルマール先生。
内容は簡単に言えば、シュヴァルツメドヘンへの招待だった。できればヤーデロイヤルを持ってきてほしい。かわりにロードレスランドで見つけた美酒でもてなす、と。
正直にいえば、今ひとつ要領を得ない手紙だった。シルマール先生とは昔馴染みではあるけれど、二人っきりで酒を酌み交わす間柄とはいえない。もっとも『残された』者同士、そういう機会を設けること自体は不思議なことではないけれど、場所が『夜の街』ということに違和感があった。
——もしかしたら『彼ら』の亡骸が見つかったのかもしれない。
メルツィヒの砦でついぞ見つからなかった遺体。
変わり果てた姿を嫌でも想像してしまい、胸がぎゅっと痛んだ。
過去を懐かしんで話をするにはまだ早すぎる。傷口は未だ生々しく、塞がる気配もなかった。
『夜の街』までは船旅になる。女性の独り旅は危険なため、ベーリング家の使用人を伴って私はグリューゲルを出発した。旅装束の中にはギュスターヴに昔渡された鋼の短剣を護身用に忍ばせていた。実際にそれを使ったことは未だなかったけれど、身近に持っているという事実が心強かった。
港で船を降りるとシルマール先生が出迎えてくれた。健やかな再会をお互い祝い、宿屋に荷物を置いたところで彼は私を見つめて微笑んだ。
「ではレスリー、これから少し出かけますよ。お付きの方はどうぞこちらでお過ごしください」
「ですが……」
「心配いりません。万が一何かあっても責任はこのシルマールが負います。こちらをお持ちください」
護衛を任されていた付き人は案の定難色を示したけれど、シルマール先生は構わず彼に書状を握らせた。穏やかながら反論を許さない先生の雰囲気に、彼もしぶしぶ了承した。
宿を出て、街の中心部から離れる道に先生は足を向けた。このままだと外に出てしまう。一体どこへ行くというのだろう。
「シルマール先生、どちらに?」
先生は私を振り返ると自分の唇に人差し指を立ててささやいた。
「誰が聞いてるかわかりません。名前はなるべく控えてください」
「わかりました。でも……」
「話は後で。『夜の街』が起き出す前に発ちましょう」
一体どういうことだろう。何もわからないまま、私は先生の導く先へと続くしかなかった。
シルマール先生から聞いた話は、耳には聞こえていても頭の理解が全く追いつかなかった。もしかしたら手紙をもらったこと自体も何かの夢なのかもしれない。ぐちゃくちゃになって混ざりあった想いに溺れ、私はよくわからないまま言葉を失っていた。
相当混乱した顔をしていたのだろう。シルマール先生は聞くより見る方が早いでしょうと言って、私をある家の前まで連れて行った。
遠く離れた地に一人取り残されたような心地だった。シルマール先生を仰ぎ見たけれど、彼は優しい笑みを浮かべるだけで一緒に入ってくれる気はなさそうだった。
私はどんな顔をしたらいいのだろう。何を言えばいいのだろう。都合の良い可能性を諦めようと努力していたのに。そんな真実がありえるというの。
震える手で扉を開いた。
思ったより大きく響く音に怯えながら、私は一歩を踏み入れた。
窓から差し込む光で部屋は明るかった。少し入ったところに木のテーブルと椅子が二つ。椅子には誰も座っていない。部屋の奥には調理場があって、グラスと食器が並んでいた。
テーブルのさらに奥に廊下がある。入ったところからは影になって見えないが、おそらくそこが寝室に繋がっているのだろう。
外に出るための扉を静かに閉じると、奥から物音がした。私が今閉めたものとは別の扉が開く音がする。
「先生?」
その声に私は動けなくなってしまった。
廊下から人影が近づいてくる。ゆっくりとした歩調で光の中へと歩んでくる。
私はまだ夢を見ているのではないか。気がついたらまだグリューゲルのベッドで枕を濡らしているのではないか。
だって、あまりにも——
奥から出てきた人の瞳が驚きに見開かれたのがわかった。
「あなた、ほんとうに生きて……」
声が震える。懐かしいというにはまだ忘れられない瞳が私を見つめる。
「レスリー?」
そばに居なくても何度も耳に聞こえた声が、私の名前を呼ぶ。
立っていられなかった。足から力が抜けて私は床にへたり込んでいた。
立ちつくしていた彼が慌てたように駆け寄ってきたが、バランスを崩してよろめいた。すぐ前で膝をついた状態で傾いだ彼の肩を思わず抱きとめた。しっかりとした重みが腕に伝わる。
すまん、と小さくつぶやいた彼の身体はあたたかい。手が私の肩に触れて、彼が姿勢を起こした。
目の前にギュスターヴがいる。もうどこにも居なくなったと思っていたギュスターヴが、ここにいる。
「レスリーがなぜ?」
「先生が」
喉がしまってうまく声が出せなくなる。ためきれなくなった涙が目から次々と溢れてきた。
「……ってことか……」
「え……?」
ギュスターヴが何かを口にしたのにうまく聞き取れない。
「みんな、あなたが死んだと思って……!」
「……うん」
言いたいことがたくさんあったはずなのに、引きつった声しかあげられない。子供のように泣きじゃくる私の頭をギュスの手が撫でた。
最後に会った時より痩せていて、一回り小さくなったみたい。先生から聞いていた通り、左の肩から先の腕がなくなっている。
でも、生きている。
確かに、生きていた。
「すまない……俺だけなんだ」
「……?」
言っている意味がわからなくて、私は彼の目を見た。強い痛みを含んだ声が続ける。
「ヨハンが……。フリンが……」
ギュスターヴの顔が大きく歪んだ。
「ギュス、あなた……」
ギュスターヴが、泣いていた。ソフィー様が亡くなった時から涙を見せようとしなかったギュスターヴが、目の前で泣いていた。一体どれだけ苦しんだのだろう。どれだけ自分を責めていたのだろう。
ヨハン。フリン。
もういなくなってしまった二人。
同じようになっていたかもしれないギュスターヴ。
「ギュス、生きていてよかった。あなただけでも、ほんとうに……よかった」
うまくつげない言葉をなんとか繋ぎ合わせ、私は彼の身体を強く抱きしめた。
腕の中で震える身体を感じながら、私は理解した。
これからどうするつもりか、なんて聞く必要がないことを。彼はもう、選択をしたのだ。
「レスリー」
抱きしめていた手をゆるめると、ギュスターヴがゆっくりと立ち上がろうとする。力は戻ってきているみたいだけれど、片腕がないというのは何かと前のようにはいかないのだろう。ふらりと揺れる身体を支えると、彼は素直に私の肩をかりた。
テーブルのそばの椅子に彼を座らせると、私もすぐ隣に腰掛けた。彼の右手が私の手に重なる。それがとても自然な仕草で、ずっとそうしてきたみたいで。はらりとまた雫がこぼれた。
「レスリー、帰ろう」
「どこに?」
「レスリーがいるところに」
彼が穏やかに微笑んだ。その言葉に、彼が『鋼のギュスターヴ』にもどるつもりがないことを確信する。
「私、ハンを離れたのよ。今はグリューゲルに住んでるの」
「レスリーがいるところならどこでもいい。見知らぬ地だとしても、そこでいい」
「ギュス……」
「悪い。順番を間違えたな」
ギュスターヴは苦笑すると、重ねた手に力を込めた。潤みを残した双眸がまっすぐ私に向けられる。息をするのを忘れてしまいそうな眼差しに心が奪われる。
「レスリー、君さえよければ、俺は君とずっと一緒にいたい。俺の居場所は君なんだ」
「ギュス……?」
「俺は君を幸せにすることができないと思う。それは今も前も変わらない。この手で守ってやることさえもうできない。それでもそばにいたいんだ。勝手なことを言っているのはわかっている。だが」
「ギュス、ギュス」
私は何度も首を横に振った。
幸せにしてほしいなんて思ってなかった。そばにいられるだけで十分だった。私が彼を守ってあげたかった。
ギュスターヴの手の上に反対の手を重ねて、願った。
彼の言葉が嬉しかった。私はまた泣いた。
「おかえりなさい、ギュス。私、これからもあなたにおかえりなさいって言い続けられるのね」
それはなんて幸せなことなんだろう。